【力とは何か編】第三段 利休、切腹すること
【力とは何か編】第三段 利休、切腹すること
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あれほど寵愛されていた利休が、あっけなく、しかし壮絶な最期を迎えることになった。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
天正十九年正月、秀吉の異父弟・秀長身罷り候。長らく秀吉と諸大名との間を取り持ちてきたこの者の死により、政権内の均衡、大きく崩れ候。同年二月十三日、利休、大徳寺山門の一件を口実に京を逐われ、堺の自邸に蟄居を命ぜられ候~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
天正19年(1591年)正月、秀吉の異父弟である秀長が亡くなりました。この男は、長らく秀吉と諸大名たちとの間に立って、政権内の調整役を務めてきた人物です。その死によって、これまで保たれてきた政権内の均衡が、大きく崩れることになりました。
同年2月13日、利休は突如、京都を追放され、堺の自邸に蟄居を命じられました。表向きの理由は、利休が寄進した大徳寺の山門に、利休自身を象った木像が安置されていたことでした。この木像、雪駄を履いた姿だったそうで、秀吉はこれを「山門をくぐる者すべてに、この木像に踏みつけられる形になる」と激しく怒りました。2月25日には、この木像が一条戻橋のたもとに磔にされました。
ただ、これはあくまで表向きの理由に過ぎないというのが、私の見立てです。木像の一件は何年も前からあったことで、今さら咎めるには不自然なところがありました。真の理由は、これまで書いてきた通り、利休が持つに至った「はやりを作る力」、そして家康や伊達政宗といった大名たちとの結びつきに、秀吉が抱いた恐れにあったのではないかと、私は思っています。
2月28日、利休はついに切腹を命じられ、自ら命を絶ちました。享年70。切腹に際して謝罪すれば助命の道もあったとも聞きますが、利休はこれに応じませんでした。処刑された利休の首は、あの磔にされた木像の足元に、踏みつけられる形でさらされました。
刀ではなく美意識で人の心を動かした男の最期が、こうも執拗な、見せしめじみたものになるとは、正直、私も予想していませんでした。ただの茶人を処罰するだけなら、これほどの念の入れようは要らないはずです。木像を晒し首の下に置くというやり方には、秀吉の、単なる怒りを超えた、深い恐れのようなものが滲んでいるように、私には感じられます。
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之長、元長、久秀、信長、光秀――我はこれまで、刀を持つ者たちの下剋上を、数えきれぬほど見てきた。だが今度は、刀を一度も抜かなかった男が、それでも同じように、権力者の恐れによって命を落とした。武力とは、詰まるところ、人を従わせる力のことなのだろう。だとすれば、刀を持たぬ利休もまた、紛れもなく一つの武力を持っていたのだ。そしてその力があまりに大きくなりすぎた時、たとえ刀を抜かずとも、人はやはり討たれるのだと、この一件は我に教えてくれた。




