第34話「風、大海原を渡る」
航たちは村上の家に向かう
階段を上がると、
二階の空気は、どこかそのまま止まっているようだった。
誠おじいさんと、航たちの匂い――
木のにおいが満ちている。
棚の上には、羽を広げた一角獣と羽黒の模型。
棚には年代物のVHSがぎっしり並んでいた。
手に取ると、ケースがこすれるかすかな音がする。
「英一に返す」
その文字が貼られた付箋は、少し色褪せている。
「……生きてるうちに返してね、ほんと」
航が苦笑すると、横で響も小さく笑った。
棚を眺めていると、
ずらりと並ぶ名作のタイトルに、航は思わず息を呑んだ。
「英一さんとも戦後ずっと、付き合いがあったんだ」
「ね、すごいよね」
響は頬をかすめる秋風に髪を揺らして立っている。
「わたしたちも――ずっと、そうだったらいいな」
響の声は、ほんの少しだけ小さくて、
でも迷いがない。
誠おじいさんの部屋の静けさが、
その一言をやさしく包み込んだ。
航は一角獣と共に置かれた
羽黒の精巧な木製模型へと視線を移した。
誠が何十年も手を入れ続けた艦。
その船影は、今もゆっくりと海を進んでいるように見える。
「……うん」
航は小さく答え、響の横顔を見た。
「ずっと……そうだったらいい」
響が一瞬だけこちらを見て、照れたように笑った。
秋の光が、VHSのケースと木の模型を
やわらかく照らしていた。
響は航の横顔を一度見て、少し迷ったあと口を開いた。
「ねえ、誠……おじいさんがね。“ちょっと秘密にしてくれると、
ありがたい”って言ってた──
響乃おばあさんの話、聞きたい?」
航は思わず固まる。
「それ……俺には話しちゃいけないやつだろ。……どうして今?」
響は膝の上で指を組み、ぽつりと言った。
「なんかね……今日、おじいさんが“話していいよ”って言った気がしたんだ」
「……響、めずらしいね、そういうの、あんまり信じないほうだよね」
「でも、本当にそう感じたの」
航は黙り、息をひとつ吐く。
響は続けた。
「誠おじいさんがね……響乃おばあさんのところに、
秀樹さんの遺品を届けに行った話
おばあさん本人から聞いたんだ」
「……え? 遺品って……秀樹さん、英一さんに、
助けられたんじゃなかったのか?」
響はゆっくり首を振った。
「……ちがうんだよ。
おばあさんね……秀樹さんと幼馴染から恋仲だったんだって。
あの時代なら、そのまま結婚する流れだったって」
航は言葉を失う。
響の声が少し震えた。
「でもね……ケガが悪化して……
秀樹さん、亡くなっちゃったんだって」
航はテーブルの角を握りしめる。
「……そうか。そんな……
おばあさんにとっても……悲劇でしかないじゃないか……」
「うん。だからね……おじいさん、話したくなかったんだと思う。
おばあさんの気持ちも、秀樹さんのことも…… 」
航は静かにうつむき、模型の羽黒を見つめながらつぶやいた。
「……あの人が抱えてた重さって……俺なんかの想像の、何倍もあったんだな」
部屋の空気がしん、と沈む。
響はそっと航の手に自分の手を重ねた。
「……ね、航。
おばあさんね……遺品を届けに行った日のことを、
わたしにだけ話してくれたの」
航は顔を上げる。
その目は、聞く覚悟を固めた人の色をしていた。
「……響。その日のこと、聞かせてくれ。
俺も……背負っときたい」
響はゆっくりと頷き、窓から入る秋風を確かめるように深く息を吸った。
「じゃあね……始まりは、おじいさんがまだ若かったころ。
終戦からそんなに経ってない、ある秋の日だったって──」
響の言葉が、静かに部屋の空気を変えていく。
遠い昔の、時の大海原を進む木の羽黒が
まるで時間の境界をほどく鍵みたいに見えた。
響は声を落とし、語りの調子になる。
「おじいさんはね、その日……
秀樹さんの遺品を、ひとりで響乃おばあさんの家に届けに行ったんだ。
胸の内でずっと迷いながら……
“なんて言えばいいのか”ってね」
航はまばたきもせず聞いている。
響の語りが、静かに時の流れを巻き戻していく。
――――――
秋風がまだ少し冷たい、昼前のことだった。
若い誠は、軍帽を手に握りしめたまま、
山沿いの細い坂道をひとり歩いていた。
胸ポケットには、
秀樹の遺品─割れてレンズがなくなってしまった
単眼鏡と手つくりの小さなお守り
“どう伝えればいい……
あの人が……大事な人を失ったなんて……”
誠の足は、何度も迷い、何度も止まった。
だが坂の先、白い柿の木の下に見えたのは、
家の前を掃いていた、まだ若い日の響乃の姿だった。
誠は息をのみ、
小さな紙袋を震える手で握りしめた──。
「──村上誠、入ります」
凛とした声を出したつもりだったが、
誠の指先はかすかに震えていた。
扉の向こう、喪服ではないが落ち着いた紺の着物姿の響乃が、
静かに立ち上がった。
「秀樹のことですが……」
言った瞬間、誠の喉が詰まった。
だが響乃は、誠の予想とはまるで違う言葉を返した。
「大丈夫です。……手紙が、届いています」
誠は心の中でそっと呟く。
──平井艦長……ありがとうございます。
船体は大きく損傷し、補給船は本国へ帰れる状態ではなかった。
十ノットも出ず、護衛もなかった。
それでも、命がけで届けてくれたのだ。
響乃は手に、二通の手紙を抱えていた。
「秀樹さん……左手で、ゆっくり書いてくれたんです。
ずっと……あなたにお世話になっている、と」
筆跡は秀樹そのもので、静かで強い文字だったが、
線はとても大きく揺れていた。
「本当に、ありがとうございました。
何日も……看病してくださったのでしょう?」
誠はたまらず首を振った。
「……そんな、お礼なんて。
自分は……助けてもらったのに。
一緒に帰ると……約束したのに。
本当に……すまない」
響乃は首を横に振り、誠の前にそっと手を伸ばした。
「顔を上げてください。
あなたは……しっかり果たしてくださったのです。
それだけで、充分です」
誠は震える手で小さな包みを差し出した。
「……響乃さん。形見分けになります・・・」
包みの中には、レンズの外れた単眼鏡――
誠の心のように欠け、帰還を信じた痕跡だけが残っている。
そして、響乃が秀樹に渡した手作りのお守り。
地元に必ず帰れるといわれる緑色のフェルトの人形
右側が衝撃で綿が出てしまっている
「……戦場で残念ながら火葬はできませんでした。
遺骨は持ち帰れませんでした」
響乃はそれらを胸に抱き、震える声で言った。
「ありがとうございます……」
人形をその手に・・・
「秀樹くんもう大丈夫。
日本に帰ってきたよもう安心だよ」
「秀樹おかえり・・・・・・」
そこまで言うと、誠は唇を噛んだ。
血の味が広がるほど強く。
肩が、小さく震え始める。
「また一緒だよ・・・・・・・」
響乃はほおを伝う涙を感じる
誠は顔を伏せ、握った拳の関節が白くなるほど力をこめた。
声がそこで、わずかに震えた。
「あなたに合わせる顔が・・・」
もし生きて帰ってきたのが自分じゃなく秀樹だったなら──
響乃は、もっと違う未来を歩けたのだ。
声が途切れた。
泣き声は出ない。
ただ、こらえてもこらえても、視界の奥が熱くにじむ。
誠の頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちた。
響乃はそっと立ち上がり、誠の肩に手を置いた。
抱きしめるのではなく、そっと寄り添うように。
「だいじょうぶです誠さん……秀樹は、とても穏やかだったと」
誠は歯を食いしばり、息を詰まらせるように震えた。
嗚咽にはならない。
「……できなかった……
あんなに……帰ると約束したのに……
何もできんかった……」
響乃は静かに頷き、かすかに微笑んだ。
「あなたがいてくれたから……秀樹さんは、
最後まで独りではありませんでした。
それだけで、充分です」
誠は、声を出さずに目を閉じた。
長い長い戦争の影のなかで心の花が散り、風に吹かれる
外では、晩秋の風が乾いた葉を揺らしていた。
誠の涙が落ちた音さえ、風に溶けていくようだった。




