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この小さな花があの海に届きますように  作者: 富田 来蔵 / Kizō Tomita


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第33話「水面のたどり着く先」

まだ人がまばらな早い時間の清々しい水の冷たさの中で、

航は静かに波を立てる。

白妻ヶ浜海岸総合施設の朝は、どこまでも穏やかだった。


昨日は、結構泳いだはずだ。

それでも、今日は疲れを感じない。


航はプールサイドに手をかけ、

スマートウォッチに視線を落としながら、

短くインターバルを入れる。


「いい仕上がりだ」


小さく、独り言のようにつぶやいた。


「タイムはそこそこだけど……

 体が軽い。以前みたいに、疲労が溜まらない」


水に戻ると、

その感覚ははっきりと続いていた。


腕を回すたび、

水が素直に割れる。

呼吸も乱れない。


そのとき、

プールサイドで手を振る影に気づく。


響だった。


「やっと気づいた?」

少し呆れたように、でもどこか楽しそうに言う。


「さっきから航、全然止まらないから」


気づいた途端、胸の奥が、ふっと温かくなった


「ちょっと、集中しすぎた、水面しか見てなかった」


「航らしいね」


航はプールから上がり、ゴーグルを外す。

ふたりはプールサイドに腰を下ろした。


「こないだは葬儀の受けつけ

手伝ってもらってありがとう」


響がそう言うと、航は首を振った。


「誠おじいさんには色々教えてもらったから」


少し間があって、

響はプールの水面を見る。


「おじいちゃん・・・ちょっと寂しいけど、

とても穏やかに、ねむってたよ」


「うん、良かった」


響はふと、誠と響乃の笑顔が、心のなかに浮かび、

今も心の中に生きているような、そんな気がした


「ねえ聞いて、私ね今がとても好き、充実していて

毎日が楽しくて、そして航が横にいて」


「ふと、この時がどこか遠くに行きそうな気がしたの」


「大丈夫だよ。

俺は、今ここにいる。

それだけは、ちゃんとわかってる」


「でも怖いの。昨日まで、当たり前だったものが」


「だって私、陸上うまく行かなかった」


響は静かに航を見つめる。


「誰かと競うのが怖かった、ケガもいっぱいした

だから私には合わない」


響はそう言って、

水面に視線を落とした。


「――わたしは弓道の静けさが好きなだけ」


航たちは水面を見つめ、きらきらと光の波紋が広がっていた。


人は何に向いているかなんて、やってみるまで分からない。

航にとっては、なおさらだった。


そのスタイルを変えることが、

どれほどの覚悟を要するか――想像するまでもない。


「これはね、友達……エミリーが言ってたことなんだけど」


一拍おいて、響は続けた。


「800mのタイムを、計ってみなさいって」


本当はエミリーが響に譲った言葉だった。

だけど、それを自分の手柄にするのは、やってはいけない気がした。


「800mか……、競技の質が全く違う、俺にできるのか」


だが、航の中で感じていた違和感が、形を変え始めていた。


「使い方はわかるか」


「大丈夫、私のとたぶん一緒、こんな良いのじゃないけど」


響にスマートウォッチを渡す。


「計測を押すとカウントが出る、読み上げてくれ、

もう一度押すと止まるから」


「いくよー、3、2、1、ごー!」


秋の光が輝く中、スタートの声がこだまし、

さわやかな波を立てる――

航は小さな希望を胸に、泳ぎ始めた。

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