幕間 「幻蝶」
潮の匂いも、波の音も、現実の感覚は消え失せていた。
眼前に広がるのは、一面に咲き乱れる赤い彼岸花。
赫色の蝶がふわふわと舞い、花の赤を空気に溶かすように漂う
風に揺れる花々の間を、秀樹が歩いてくる。
近づくたび、彼岸花の花びらが静かな影を作り、揺れ動く。
航を呼ぶ風の音にも、秀樹の顔は、どこか寂し気でこちらを見ていない
波の音もなく、花のざわめきが混ざり、世界の輪郭は揺らぐ。
再び近づく秀樹の視線は、怒りでも悲しみでもない
その、はかなく整いすぎた顔は、この世のものとは思えない
風の呼ぶ声が止み、航は声を上げる、
目の前を赫い蝶が、ゆっくりと羽ばたいている
「あなたは秀樹さんですか、私は航です。」
航の声はその空間に小さく木霊する…
「俺はお前なんぞ知らない。」
「この世界は俺ではなく、誠を選んだ」
秀樹の声は徐々に大きく木霊し始める……そして蝶が羽ばたきを止める
「もし俺が選ばれていれば、響も仁も最初からいない」
「お前は自分の信じる物に生きろ、ただ、それだけのことだ」
胸の奥がひりつく感覚に襲われ、
航は反射的に飛び起きた。冷たい汗が背中を伝い、荒い息を整える
その時航の母が、心配そうに階段を上がってくる
「どうしたの、うなされていたけど」
「ねえ…お母さんの実家のおじいさんて、戦争行ったことあるの」
「明治生まれだからね、たぶんないと思うよ」
「そうか、ありがとう…もう大丈夫」
その時航の中では、夢の中の赤い彼岸花と、
空虚な瞳が、焼き付いて離れないのを感じた。
航は深く息をつき、夢の余韻を振り切るように、
手で額の汗を拭い、窓から差し込む朝の光に目を細めた
それでも赫色が視界の奥に残り、彼岸花の色が一瞬重なった。




