第四十七話 軋む心
夜、顔を蒼くした明子おばさんが家に駆けつけてきた。担任と保健の先生に事情を説明されて、叔母は険しい顔でそれを聞く。
「すぐに、姉に知らせます。」
「いいよ、おばさん…。たいしたこと無かったし。」
私は言う。病院の診断も、軽い打ち身ということで、たいした薬も出なかったほど。
「そういうわけに行きません。知らせなかったら、私が姉さんに叱られる。」
明子おばさんは少し怒った顔をする。
「私からも説明しましょう。」
担任が言う、時差のこともあって、一時間ほど待って電話がかけられることになった。
「それにしても、安全なはずの学校の中で、こんなことがあるなんて…。しかも、お宅のような名門校で。」
明子おばさんは、唇を震わせる。
「申し訳ありません。」
担任は再び明子おばさんに頭を下げる。
「再発防止に、全職員を上げて取り組んで行く所存です。」
「当然です。ともかく、姉に包み隠さず、今日のことを説明してください。」
「はい、出来る限り。」
担任の先生は神妙な顔で、叔母に返答する。
こんなこと、お母さんに知られて無駄な心配はかけたくないけれど、仕方ないんだろうな。でもせめて、今日の校長室でのタケルと先生たちのやりとりを知らない担任の先生が、説明してくれることになって助かった。私はそう思った。
思惑通り、担任の先生の話は、私が襲われ、未遂に終わったけれど軽いけがを負ったという事実と、再発防止に取り組むこと、あとは長々しい謝罪に終始して、私にまつわる噂や、タケルのことには触れなかった。明子おばさんと担任の先生を経由して、電話が私に回ってきた。
「ちょっと!大変なことになってるじゃない!大丈夫なの?できるだけすぐ帰国するから。」
母の焦った声が受話口から聞こえてくる。
「大丈夫、怪我もたいしたことない。どうせ年末に帰ってくるんだから、チケット取りなおすとか無駄なことしないで。私は平気。ていうか、もう定期試験が近いのに、帰ってこられてお母さんに騒がれると勉強の邪魔。」
私が可愛げのない返答をすると、「まあ、この子は…。」と母の鼻白んだ声が伝わってきた。私は黙って、また明子おばさんに電話を変わる。
「怪我の跡は痛々しいけど、一週間足らずで目立たなくなるみたいだし、何よりも楓ちゃんがしっかりしてるから、あんまりお姉さんが動揺しすぎないであげて。うん、うん、そうするつもり。今晩は、私がここに泊まって、明日は私の家に連れて帰るから。」
話がまとまったらしく、明子おばさんが私に電話を渡してきた。
「心配かけてごめんなさい。大丈夫だから、帰国日は早めなくていいから。……うん、大丈夫。」
国際通話が終わって、私はほっと一息をつく。先生方は遅くなった非礼を明子おばさんにわびて、マンションを後にして、私は明子おばさんに連れられ、おばさんの家に向かった。
次の日曜日、叔母に送られて、私は緑に包まれたこのマンションに戻ってきた。突然のことだったけれど、明子おばさんの一家は快く私を迎え入れてくれて、ひとり暮らしに慣れていた私も、久々の暖かで賑やかな普通の家庭での暮らしを味わって、十分に事件の傷は癒された。
おばさんが帰ってしまった後、私は、サボテンに向かって、「ただいま、太郎。」とぽつんとつぶやいた。
タケルと私がキスをした日から、姿を見せなくなってしまった太郎。今、私とタケルは形の上では恋人同士だけれど、……これが太郎の望んだ私の姿なんだろうか。私は刺々しいサボ太郎をじっと見つめる。やがて、私は小さくため息をつき、一週間近く放置していた観葉植物たちの手入れを開始した。
リビングの窓近くに置いた木々の手入れにかかった時、私の目は自然に、そこから見える公園へ向いた。……あれから、天野くんからは連絡の一切が無い。
「今まで、楓をありがとな。」と言った、タケルのあの言葉、そして、校長室でのやりとり。
タケルがあの時、わざわざ証人として、天野くんを呼び寄せた理由は分かっている。
「守れないなら、手放せ」と言った天野くんの言葉を、タケルは見事に逆手に取った。自分がどんな風に問題を対処するか、天野くんに目の前で示すことで、心理的に天野くんと私を遠ざけた。理事長と、校長、教頭の前で表明された私とタケルの関係。どんな思いで、天野くんがあれを聞いたのか…、あの時、天野くん血の気が引いて、いまにもその場に倒れそうな顔をしていた。
……もうこれ以上、繊細な天野くんを傷つけてはいけない。先週のように中途半端に天野くんに近づくことは、よけいに優しい天野くんを傷つける。公園を見ないようにするために、私は昼間からそっとリビングのカーテンを閉めた。
掃除と植物の手入れが終わって、私は定期試験の勉強に取り組む。私が休んでいた週半ばから、学校は試験週間に入った。私は特別措置で、週明けから、追試ではなく、他の生徒と同じ内容のテストを受けさせてもらうことになった。明日からは、教室ではなく、職員室近くの会議室が、私の登校部屋となる。
タケルからは毎日のようにメッセージが来ている。昼休憩も、試験の内容漏れを防ぐために、他の生徒との接触が禁じられているため、タケルにそのことを伝える。長々としたメッセージの後に、「早く会いたい」という言葉で、締めくくられて、タケルとのやりとりが終わった。夜のような帳に閉ざされたリビングで、私は黙々と勉強を続けた。
月曜日、登校すると、朝練を終えたタケルが下駄箱のところで待っていた。
「私、試験が終わるまで、誰とも接触しちゃいけないって言われてるの…。」
私はタケルの顔を見て、おずおずと伝える。
「わかってる。久しぶりだから、少しだけ。」
タケルが私の髪に触れる。
「髪、また切ったんだね。」
「うん……。」
明子おばさんの家にいた先週の土曜日、叔母に連れられて、近くの美容院に行った。二学期の初めの時よりも、さらに短いショートボブになった。
「ますます、中学の頃に戻ったみたいだな…。でも、化粧しないほうがいいのに。『あの頃』っぽくて。」
タケルはそんなことを言って、私の頬にも触れる。
「痣が少しまだ残ってるから、それを隠すため。」
私は説明する。そう言いながら、タケルが求めているのはやっぱり、「駆と一緒にいたころの私」なんだな、と心の中で思う。
「でも、これはこれで可愛いよ。……あと、これ。楓に上げようと思って買ってきた。」
ポケットから何か小さな袋を取り出す。
「目、閉じて。」
そう言われて、私はそっと目を閉じる。タケルの大きな手が、私の額に触れる。前髪がかき分けられる感触がして、額が涼しくなる。
「ほら、こうすると、あの頃の楓みたい。」
タケルが満足そうに笑った。私は額に手をやると、前髪が分けられて、ピンで留められていた。
「すげえ可愛い、楓。」
そう言ったタケルは、多くの生徒でざわめく下駄箱の前で、私の額にキスを落とした。周りの視線を痛いほど感じて、私は目を伏せる。
「じゃあ、俺、行くわ。」
タケルは満足そうにそう言って、下駄箱の前の階段を上がって行った。私は靴を脱ごうと、身体を反転すると、登校してきたばかり、といった風の天野くんと目が合った。今のタケルとのやりとりと、額へのキスを見られてしまった恥ずかしさで、私は急いで上履きを履いて、急いで会議室へ向かう。
たった一人の会議室が、むしろありがたかった。天野くんの哀しそうな眼の色が、私の瞳の奥に焼きつく。鼻の奥がつんとする。涙が出ないように、私は自分の左手の甲に、思い切り右手の爪を立てた。表面的な傷みが、もっと痛い心の奥の痛みを和らげてくれる。
三日間の定期試験と、追試験が終わると、私はクラスに戻った。一瞬、教室中の目が私に向く。やがて、その視線はすべて気まずそうに逸らされた。これまで私を卑猥な言葉でからかって来た男子たちは、より私を見ないように一生懸命無視しようとする。
タケルが先生に訴えた、噂の払拭の結果がこれだ。私は、クラスでいないものとして扱われるようになった。
昼休憩、私はお弁当を持って、廊下でタケルを待つ。タケルは嬉しそうに近づいてきた。
「楓が廊下で待っててくれるなんて初めてだな。」
「引っ立てられるみたいに、教室から連れて行かれる姿をもう見たくない。」と天野くんに言われたから、私は廊下でタケルを待つことにしただけなんだけど。タケルは満面の笑顔で、嬉しそうに私の手を取って、学食への道を歩く。食事を終えると、タケルはいつもの視聴覚室準備室に向かわずに、私の肩を抱いて、見せびらかすように廊下を悠々と歩く。やがて、ひとつの空き教室にやってきたタケルは、私をそこに連れて入る。
「いつもの部屋じゃなくてごめんな。聞き取り調査の時、俺らがいつも視聴覚準備室で会ってるのがバレて、カギを持ってるなら返せって言われた。」
「そう。」
「こんなこともあろうかと、スペアは複数作っておいたから、返したのはそのうちの一個だけだけど、ほとぼりが冷めるまでは、ちょっとカギのかかる部屋は使えないから。」
相変わらずタケルは悪知恵が回るんだな、と私はぼんやりと思う。
「ま、別にカギかかんなくても、二人きりになれる場所なんて、いくらでもあるから。」
そう言って、タケルは私を膝の上に乗せて抱きしめる。
「会いたかった…。一週間、長かったよ。楓。」
タケルの顔が近づいてくるので、私はそっと目を閉じる。タケルの唇を自分の唇で受け止めながら、私はぼんやりと、あと何度こんなことを繰り返していたら、私はタケルを好きになれるんだろう、と考えていた。ため息をついたタケルは、私を床にそっと横たえる。
「楓、可愛すぎる。口、開けて。」
タケルは優しく命令する。おとなしく私は唇をそっと開くと、タケルは嬉しそうに舌を差し込んできて、私の舌を絡め取って、強く吸う。何度も何度もキスを繰り返して、タケルはやっと唇を離した。
「やっと帰ってきた、俺の楓。今日は、付き合いはじめの頃みたいに、楓、すごく従順で可愛い。可愛すぎてヤバい、俺、止まんなくなりそう。」
そう言って、タケルは私を引き上げて、また自分の膝の上に座らせる。
「ま、反抗的な楓も、征服欲をそそられて、それも良かったけどな。」
タケルはそう言って、くっくっと笑った。
「……でも、ほんとは、早く、俺を好きになって欲しいな。」
再び、タケルの顔が近づいてくる。
「早く、あの時の、駆に恋してた頃みたいな楓になって、俺に恋して。」
私の心がギリギリと軋む音がする。思わずタケルの胸を押して跳ねのけようとしたとき、私の手はタケルによって拘束され、今日何度目か分からないキスを与えられた。




