第四十五話 事件。
※若干の暴力描写あり。
その日の放課後、私は廊下を歩いていたら、三年の先輩に呼び止められた。
「美化委員の望月さん、だよね?向こうで担当の先生が呼んでたよ。用具室の前。」
そう言われて、私は三階の片隅の用具室へ向かう。清掃道具の不備でもあったのだろうか?
用具室の前は、誰もいなかった。このあたりはあまり人の来ない暗い廊下で、私はくるりと反転して、帰ろうとしたら目の前の人物に気づく。さっき先生が呼んでいる、と私を呼び止めた三年の先輩がにやにやと笑いながら立っていた。
「きみが、バスケ部のアイドルの愛人ていう子だよね、ほんと噂通り、地味だね。」
「なにか御用ですか?先生はいらっしゃらないみたいだから、帰ります。」
私は嫌な予感がして、さっさとその場を去ろうとすると、腕を取って引き止められる。
「待ってよ、ねえ、あの小松っていう子がいながら、荒川が君に傾いてるってことは、すごい技持ってるんでしょ?俺にも見せてよ。」
「やめてください。離して!」
手を振り払おうとするけれど、力が強くて意外に振り放せない。むしろ、用具室のドアに押し付けられて、片手で口をふさがれる。
「こんな廊下でなんにもしないよ。……ちょっと触るだけ。すぐ離してあげるから。」
片手で私の口をふさいでドアに押し付けながら、もう一方の手で、私の身体を制服の上から触ってくる。悲鳴をあげようとするけれど、口がふさがれているから、くぐもった声しか出ない。
「へえ、あんた結構そそる目をしてるな…。なんでそんな地味にしてんの?あの小松って子に負けないぐらい、コテコテに盛ればいいのに。」
男はニヤニヤして、さらに力を強める。
「これくらいで暴れんなよ。あんた、ビッチだって学校中で評判じゃん?ちょっと触るぐらいなんでもないっしょ。」
不敵な笑みを浮かべて、その男は制服の下に手を潜らせようとした。私がさらに大きい声を上げようと口を開けようとすると、故意か偶然か、男の指が口に入り込んできたので、私は思い切りその指を噛んだ。
「痛ってえ!何すんだこの女!」
男は、怪我をしている掌ではなく、手の甲で思いっきり私の頬を打った。男の硬い骨が直接頬を打ったので、片目が一瞬見えなくなり、口の中に血がにじんだ。
そんなことにひるんでいられないので、大声で「誰か!」と助けを呼ぶと、男はあわてたように、用具室のドアを開けた。ふだんはカギが閉まっているのに、不幸なことにその日は空いていたらしく、私は部屋に連れ込まれそうになった。ドアのところでもみ合っていると、
「おまえ!こんなとこでなにやってんだ!」
と怒りの声が聞こえてきた。
「関係ねえよ!二年は引っ込んでろ!」
顔を上げてみると、助けに来てくれたのは天野くんだった。
「なに女の子を無理やりこんなところに連れ込もうとしてんだよ!おまえのやってることは犯罪だぞ!通報されてもいいのか!」
天野くんの凛とした声に男はひるんで、舌打ちして逃げて行った。私は荒い息を吐いて、その場に座り込んだ。男の足音が聞こえなくなると、天野くんはがっくりと膝を床についた。
「なんで……なんでこんな目にあってんの、望月さん……。」
「わ、わかんない……、ビッチだから触らせろとか言っていきなり…。た、助けてくれてありがとう。」
私はがくがく震える声で、天野くんにお礼を言う。襲われた恐怖が、今さらながら身を包む。
「ま、また助けてもらっちゃった。ごめんね、もう大丈夫だから。」
私が無理して微笑みを浮かべると、天野くんは泣きそうな顔をした。
「なんでこんな時に笑おうとするの?全然大丈夫じゃないでしょ?……顔も腫れてるし、唇、切れてるよ。」
「大丈夫。たいしたことない。」
「大丈夫なわけない!」
天野くんが大声で叫んだので、私はびくっとする。天野くんはため息をついて、
「ごめん、怖がらせて…。保健室行こうか、立てる?」
「うん……。」
天野くんに支えられて、やっとのことで立ち上がって、私はそろそろと歩きはじめた。天野くんが右手を貸してくれる。
「たまたま三年の先輩に、スケッチ頼まれて来てて……、ほんと偶然だったんだけど、間に合ってよかった。」
天野くんが、かすれた声で言う。天野くんに支えられて、そろそろと廊下を歩く異様な姿は人目についたらしく、顔色を蒼くしたタケルが飛んできた。部活前でジャージ姿だったタケルは、
「天野、おまえ、楓になにしたんだよ!」
と詰め寄る。
「違う…タケル、天野くんは助けてくれたの…、三年の知らない先輩に襲われて…。そこに天野くんが助けに来てくれただけだから。」
私は痛む頬を押さえて、一生懸命、弁明する。
「襲われた……?なんで?誰に?」
タケルの顔色がさっと変わる。
「……おまえのせいだろ。」
天野くんが低くつぶやいた。
「おまえのせいで、望月さんがどんな噂されてるか、おまえ知ってるだろ?知っておきながら、放置してたから、こんなことになるんだよ!手放す気が無いなら、ちゃんと守れよ!じゃなきゃ、もう解放してやれよ!彼女を!」
天野くんは上背のあるタケルに、怖じることも無く立ち向かう。タケルは、そんな天野くんをじっと見つめて、ぽつりとつぶやいた。
「わかった、おまえの言うとおりだな。」
そう言って、私をひょいと横抱きに抱き上げた。固唾を呑んで見守っていたギャラリーの女の子たちから、キャーッと悲鳴が上がる。
「楓を襲った奴の名前、知ってる?」
タケルがそう言っている表情は、私からは見えない。でも、声は恐ろしいほど冷静だ。
「ああ……。」
天野くんが先輩の名前を言うと、タケルは深くうなずいた。そして、二、三歩私を抱き上げたままタケルは進んで、不意にタケルは大きな声で言った。
「天野、今まで、楓をありがとな。もう、大丈夫だから。」
私たちの後ろにいるはずの天野くんは、その言葉に何も答えなかった。
タケルは保健室に私を連れて行く。
「すみません、先生、ちょっとコイツ見てやって。」
「はいはいー。あらー、荒川くん、具合の悪い子をお姫様抱っこなんて、噂にたがわないヒーローね。」
奥からのんびりと出てきた保健の先生は、私の顔をみて、さっと表情を変える。
「大丈夫か、楓。」
タケルは心配そうに私の前にかがんで尋ねてくる。私は黙ってうなずく。
「……これ、だれかに殴られた跡でしょ、何があったの?」
「……知らない先輩に、いきなり……。」
先生と私の会話を何も言わず聞いていたタケルは、黙って立ち上がって、
「楓をよろしくお願いします、俺、ちょっと行くとこあるんで。」
と、保健の先生に、深々と一礼して、さっと保健室から出て行った。保健の先生は、私の顔を丁寧に診ながら、
「打撲と小さな切り傷だけど、口の中はどうかしら?一応、病院に行った方がいいと思うんだけど…。とりあえず、腫れがあるから冷やしましょう。」
と冷蔵庫から保冷剤を出してきて、ガーゼでくるんで持ってきてくれた。そんなことをしていたら、廊下がにわかに騒がしくなってきた。廊下をバタバタと生徒が走り回るような音がして、
「バスケ部の荒川が三年の教室に殴り込みだー!」
という声が聞こえてきて、私は呆然とする。保健の先生は、私を手当てする手を一瞬止めて、私のほうをじっと見る。
「荒川くんと、あなた、なにか関係あるの?この傷はどういう事情?」
私はうまく言えなくて、口ごもる。先生は洞察深そうな目で私をじっと見ると、
「あなたが誰かに襲われて、荒川くんはその仕返しに行った?そうでしょう?」
私は黙ってうなだれる。
「困ったことになったわね……。」
先生は気遣わしげにつぶやいた。
「あなた、保護者は?」
「今、家にいません。」
「そう……。じゃあ、私かあなたの担任の先生が、あなたを病院に連れて行かなきゃね。どちらにしても、保護者の方へ連絡が要るわ。」
「両親は仕事で海外です。」
「そう、じゃあ身元引受人というか、ご親類の方は?」
「隣県に叔母が…。」
「そう、遠いわね…。」
先生はため息をつく。
「幸い、傷もたいしたことが無さそうだから、とりあえず、しばらくベッドで休んでいて。いろいろ諸方に連絡して、担任の先生と話し合って、病院に行く手筈を整えましょう。」
「はい。」
先生に言われるがまま、保冷剤で頬を冷やしながら、保健室のベッドに横たわる。
「あなた、クラスと名前は?」
先生に尋ねられる。
「2-1の望月楓です。」
「そう…そう言えばさっき、荒川くんが、『楓』って呼んでたわね…。」
先生がつぶやく。保健室の冷たいシーツの上で、私はゆっくり目を閉じる。タケル、殴り込みに行ったって言ってたけど、そんなことして大丈夫なんだろうか…。もうすぐ冬の全国大会だって言うのに。
そして、天野くん…。また助けてもらっちゃった。いつも私、天野くんに迷惑かけてばかりだな…。私の目尻から、一粒涙が流れる。
そして、タケルがさっき天野くんに言ってた言葉が気にかかる。「楓を今までありがとな、もう、大丈夫だから。」って。ギャラリーには、ただ、あの場面だけでのお礼の言葉にしか聞こえないだろうけど…、 明らかに、あれは違う意味が含まれていた。
タケルは天野くんに、もう、私にかまうな、って言ってるんだ。やっぱり、タケルは、天野くんと私のこと、何か知ってるんだ。
幾ばくかの時間が経過したころ、慌ただしい足音がして、誰か保健室にやってきた。
「あの……、ここに望月楓さんが休んでいると聞いたんだが。」
声は、教頭先生のようだった。
「はい。」
私はゆっくりと起き上がる。
「あ……、こんな時にすまないが、ちょっと校長室に来てもらえんか。荒川くんが三年の男子生徒と暴力沙汰になって、ちょっと問題になっているんだ。君が関わっているって言うことで、事情が知りたい。」
「そんな!彼女は被害者ですよ!なぜいま、そんなことをする必要があるんですか!」
保健の先生が抗議の声を上げる。
「その場に、彼女への加害者の生徒もいるんでしょう?被害者と加害者を同じ部屋で、直後に合わせるとか非常識です!」
「私もそう思うんだが、たまたま理事長が来ておられて、ことがわが校のスターの荒川くんに関わるだけに、理事長も非常に心を痛めておられる。なるべく荒川くんの部活動に影響が無いように、と、できるだけ詳しい事情を当人たちから聞くように、とのお達しだ。」
保健の先生は悔しそうに唇を噛む。私立の学校の宿命、権力者の理不尽がまかり通る世界。教頭は額に湧く汗をせわしなく拭く。
「君も付き添って来てくれたまえ。そのほうが、望月さんの心の負担も最小限に抑えられるだろう。」
「わかりました……。」
私は保健の先生に支えられながら、ゆっくりと校長室に向かった。校長室の、校長先生の席には、めったに見ない理事長がゆったりと腰かけていた。




