第二十六話 荒川くんと楓の接点
次の日は金曜日で、一時間目は選択授業だったから、教室移動で廊下がざわめいていた。すると、後ろから、
「望月さん…。」
と、知らない男子の声で話しかけられた。振り向いて、私は驚いた。バスケ部のエース、荒川くんだった。
荒川くんは真面目な顔をしていた。そして、口を開くと、思いがけないことを言った。
「望月さんて、小学校は、江野小学校じゃなかった?江野中にも少しだけいたよね?」
「うん、そうだけど…。」
胸がざわ、とざわめく。私が駆と過ごした、小・中時代。
「俺もさ、江野小と江野中だったんだよね…。俺のこと、覚えてない?」
真剣な顔で問われて、私は戸惑う。
「ごめん…、まったく記憶になくて。」
「かもね、小学校も中学校も、全部クラス違ったから。」
「そうなんだ…。ごめんね、覚えてなくて。」
私は申し訳なくて謝る。すると、荒川くんがふっと笑った。
「しょうがないよ、とことんクラス違ったんだから、覚えてなくても。……でも、俺は覚えてる、望月さんのこと。」
「そっか…。」
なんでだろう。今よりは少し明るくて、おしゃべりだったけど、そんなに目立つ方じゃなかったと思うんだけど、小・中時代の私。少なくとも、他のクラスの子に覚えられる程ではない。
すると、荒川くんの次の言葉で、私の思考が止まった。
「俺さ…、望月さんとはクラスがずっと違ったけど、駆と…早川駆とは、小学校の時、ずっと同じクラスだったんだ…。」
すうっと、世界から色が全部引いた。モノクロの世界に浮かび上がる、緑をバックにした、駆の笑顔。
「駆を、バスケに誘ったの、俺だったんだ…。」
世界から、色とともに、雑音も消える。
「かえでー。」と私を呼んでいる、男の子の声がする。
誰?
駆だ。
駆が私を呼んでる。
「駆のこと、もっと話したい。望月さんと。」
荒川くんは、私の目をじっと見て、そう言った。
その日の昼休憩、私は、凛音に、
「ごめん、今日はお昼、一緒に食べられない。」
と言った。
「わかったー、帆乃夏と食べるよ。何か用事?」
「うん…ちょっとね、物理の先生に、質問したいんだけど、内容が複雑すぎて、長くなりそうだから、お弁当持っていく。」
「あはははは、物理って、岩田先生だよね、名前の通り見た目もカタブツっぽいの、あの先生に、質問とかよくできるね。」
「私も苦手だけど、ほかに質問できる先生いないし、しょうがないよ。」
「そっか、まあがんばって。」
「うん。」
凛音に手を振って、私は教室を後にする、向かった先は、物理準備室…ではなくて、学校の屋上だった。屋上に、物置小屋があって、そこの東側に、確かに梯子がかかっていた。
そろそろとそこに足をかけて上ると、物置小屋の上にむっくりと起き上がる人影が見えた。
「来たね。」
にっこりと笑って私を迎えてくれたのは、荒川くんだった。
「すごい場所があるんだね。」
私は感心する。黙って、誰にも気づかれないように、昼休憩、屋上に来て、と言われて、こっそりかかっている梯子の存在を教えてくれたのも、荒川くんだった。
「……たまにさ、サボりたくなったりした時とか、ひとりになりたいとき、俺、ここに来るんだ。」
「そっか。有名人だもんね。」
「うーん…まあ、そういうのも無いわけじゃないけど、俺、寮生活で、寮も相部屋だからさ。一人になれる場所っていうのも、意外とないもんなんだよ。」
「そっか。実家が、江野小の近くだったら、寮住まいするしかないよね。」
「そういうこと。」
「……ごめんね、ほんとに私、何にも覚えてなくて。」
私は謝る。荒川くんの横顔を、じっと眺めてみても、何一つ見覚えが無い。
「しょうがないよ、俺、望月さんが転校しちゃってから、ずいぶん背も伸びたし、顔もかなり変わったって言われる。……今度、駆といっしょに写ってる写真、持ってくるよ、証拠にさ。」
駆の写真、と聞いて、私の頬にかっと血がのぼる。
「……いいなあ。私、駆の写真、一枚も持ってないんだよね。うらやましい。」
「そっか、俺、いつでも一枚は持ってるよ。駆一人だけ写ってる写真だけど。」
荒川くんの言葉に、心が波だった。
「見せてくれる、駆の写真……?」
「もちろん。」
内ポケットからパスケースのようなものを取り出した荒川くんは、大事そうに一枚の写真を中から出してきた。
駆だ。駆が笑ってる。
あの時と同じような、やんちゃそうな笑顔で。ちょっと欠けた前歯を恥ずかしげもなく見せて。
私は、大事な写真に涙が落ちないように、写真を空に向けて、顎を上げた。頬を涙がつたう。
「駆の写真を見て、そんな風に泣くってことは、やっぱり今でも、駆を想ってるんだね、望月さん。」
ため息をついて、荒川くんは寝そべった。私は写真を荒川くんに返して、ハンカチで涙をぬぐった。
「ありがとう、荒川くん。」
「別に…。その写真は俺のお守りみたいなものだから、上げられないけど、今度は別の写真、持ってくるよ。どれも大切なものだけど、望月さんになら、一枚上げてもいいよ。」
「ありがとう。」
私の目に再び涙があふれ、それを隠すように、ハンカチで顔を覆った。ハンカチが絞れるほどに濡れるまで、私の涙は止まらなかった。荒川くんは、何を言うでもなく、ただ、泣いている私のそばに寝そべっていて、それが彼の優しさだと思った。
何を話すでもなく、昼休憩の時間は、ただ流れて行った。
荒川くんは、昼休憩の終わり前に急いでおにぎりを頬張っていたけれど、私は結局お弁当に手を付けることなく、屋上を後にした。お手洗いに行って鏡で確認すると、真っ赤に目が腫れていた。
少し保健室で具合が悪いと休ませてもらって、次の時間が体育だったのをいいことに、空っぽの教室で、自分の鞄に手早く教科書などを詰めて、私は早退してしまった。こんな顔、凛音や天野くんたちに、あまり見られたくもなかったし。
梯子を降りる前に、荒川くんと、携帯の連絡先を交換した。
「今度また、別の駆の写真持ってくるから、ゆっくり話そう。今日はあんまり話せなかったから。」
荒川くんに名残惜しそうに言われた。そうだよね、私が泣いてしまって会話にならなかったから、ほとんど荒川くんと喋ることはできなかった。でも、肌身離さず駆の写真を持ち歩いてるぐらいだし、たくさん駆の思い出を持っているにちがいない。クラスもずっと一緒だったって言ってたし。今度は、ちゃんと話したいな、荒川くんと、駆のこと。
……でも、荒川くんは、なんだって二年も半ばになって、私に話しかける気になったんだろう。
帰りの電車に揺られながら、そんなことを考えていたら、電車がトンネルに入り、自分の姿が、ドアに鏡のように映しだされて、思わず肩に手をやる。そうか、髪型…。この髪にしたから、荒川くんは私のことに気がついたんだ。中学時代の髪型と同じにしたから…。
日曜日、予告通りにカチューシャを持って現れた天野くんは、うきうきとした様子で、私の前髪を上げてカチューシャを差し込むと、ふと黙って私の顔をじっと見つめた。
「なに?描くなら早く描いてよ。」
私が眉をひそめると、
「いや…こないだも少し思ったけど、あんた額出すと、全然印象変わるな。なんでそんなぼってりした厚い前髪にしてんの?」
「ほっといてよ。よけいなお世話よ。」
「うん、まあ、別にいいんだけどさ。」
歯切れ悪くそう言って、姿見を私の前に移動させようとして、天野くんは首を振った。
「違うな…。」
「違う?」
「今日のあんたは、鏡の前の表情じゃない。」
「意味わかんない。」
天野くんは、黙って窓辺に椅子を持って行って座らせた。
「膝の上で両手を重ねて、そのまま。横を向いて、ベランダの外、もっと遠くの山を見て。」
言われた通りのポージングをして、ビルの隙間から見える遠くの山を見る。そのまま、黙って天野くんはスケッチブックを広げて、鉛筆を走らせる。ここ最近の私たちとしては珍しく、二人とも黙ってデッサンの時間を過ごした。
私は遠い山を見つめながら、荒川くんが見せてくれた駆の写真を思い返していた。
「……ここんところ、駆くんのことを思い出すようなこと、なにかあった?」
不意に天野くんに聞かれて、思わず正面を向いて天野くんの顔をまじまじと見る。
「…なんでわかるの?」
「描いてればわかる。ほら、横向いて。」
私は言われた通りにまた、遠い山に目を戻す。
「私と駆のね…小学校時代の同級生って言う人に会って、駆の写真、見せてもらったの。」
「こないだの金曜日か、それであんた、その同級生に会うために早退したのか。」
「まあ、そんなとこ…。」
曖昧に私は答える。その同級生が、まさか同じ校内にいたとは言いづらい。ましてや、写真を見て涙が止まらなくなって早退したとかはもっと口に出せない。
「写真見て、どう思ったの?」
「うん、やっぱり好きだな…って。」
「そうか……。」
それから再び天野くんも沈黙して、ただ黙って絵を描き続けた。
デッサンの時間が終わり、天野くんを送り出して、私は肩でふうっと息をついた。なにか今日は、妙に緊張したな。いつもくだらないことを喋ったり、お互い罵り合ったりしながら進むデッサンの時間ではなくて、重苦しい圧迫感を感じた。なぜだろう。
この間、荒川くんとも黙って昼休憩の一時間を過ごしたけれど、あの時は優しい空気を共有するような、ふしぎな心落ち着く空間だった。きっと、二人で同じことを考えていたからに違いない。二人とも、駆のことを想い、傷みを共有していた。そんなことを考えていたら、タイミングよく荒川くんからメッセージが来た。
「今週の昼休憩、どこかで時間が取れる?駆の写真、例の場所へ持っていく。」
今週のどこか、か。駆の思い出を二人で話すならやっぱり、
「晴れたら、水曜日がいい。よろしくお願いします。」
そう返信した。
「じゃあ、あそこにまた来て。誰にも言わないで。」
荒川くんから短い返信が来た。駆の写真がとうとうもらえるんだ。嬉しい。それもこれも、髪を切って、中学時代と同じ長さになって、荒川くんに気づいてもらえたからだ。そうなると、太郎のことを一概に憎んでもいられなくなる。太郎が私の髪を切らなきゃ、駆の写真を手に入れることはできなかったから。そこまで太郎が考えて、髪を切ったとは思えないけど…。
「運のいいヤツ。」
私は、玄関のサボ太郎を見つめて、くすくすと笑った。




