最初の分岐(ギャンブルの誘い)
昼休み。
事務所の空気は、どこか緩んでいた。
弁当の匂い。
テレビの音。
誰かの笑い声。
——昔と、同じ。
「なあ田中、今日ヒマか?」
その一言で、背中が強ばる。
振り返る。
同僚の顔。
覚えている。
このあと何を言うかも、全部。
「新しくできた店、行ってみねえ?」
来た。
喉が、ひくりと動く。
あの日。
ここから始まった。
(行くな)
頭の中で、声がする。
(行ったら終わりだ)
でも。
「ちょっとだけでいいって。仕事帰りにさ」
軽い口調。
何気ない誘い。
悪意なんて、ひとつもない。
だからこそ、怖い。
(大丈夫だろ)
別の声がする。
(今回は違う)
(前はたまたま崩れただけだ)
(少し遊ぶくらい——)
「……いや」
声が、思ったより小さい。
「今日は……やめとく」
「なんだよ、付き合い悪いな」
笑われる。
軽く肩を叩かれる。
その距離感が、やけに近い。
(これくらいでいいだろ)
(別に毎日行くわけじゃない)
(ちゃんとやめれば——)
頭の中で、言い訳が増えていく。
息が、少し荒くなる。
あの夜。
光。
音。
揃った瞬間の感覚。
——忘れられない。
指先が、わずかに震える。
「田中?」
呼ばれる。
顔を上げる。
同僚は、ただ不思議そうにしているだけだ。
何も知らない。
これから起きることも。
起きたことも。
勇は、ゆっくりと息を吐いた。
「……悪い」
今度は、はっきりと言う。
「行かない」
一瞬の沈黙。
「……マジで?」
「ああ」
それ以上、言葉は続かなかった。
同僚は肩をすくめる。
「まあいいけどよ」
それで、会話は終わった。
でも。
勇の中では、終わっていなかった。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。
心臓が、まだうるさい。
(行かなかった)
頭の中で、何度も繰り返す。
(行かなかった)
それだけのことなのに。
胸の奥が、妙に重い。
そして、ほんの少しだけ——
安堵する。
「……これでいい」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声で。
「これでいいんだ」
その言葉を、何度も自分に言い聞かせるように。
2部2話




