向かう場所
夜は、静かだった。
電話を切ったあとも、何も変わらない。
部屋はそのまま。
でも。
中身だけが、すべて変わっていた。
(……行くしかない)
その考えだけが、はっきりしていた。
あの場所。
十年前。
すべてが終わった場所。
そして全てが始まった場所。
あの山。
あそこに行けば。
何かわかる。
いや、もうわかっている。
確かめるだけだ。
それでも。
行かずにはいられなかった。
立ち上がる。
部屋の中を見回す。
散らかったままの生活。
触れていない食器。
置きっぱなしのままのもの。
そこに家族の気配は、もうない。
ほんの少しだけ、足が止まる。
(……美咲)
胸の奥が、痛む。
どこにいるのかもわからない。
今、どうしているのかも。
それでも。
浮かぶのは、最後の声。
泣きながら、謝っていた声。
自分が追い詰めた声。
歯を、食いしばる。
考えるな。
今は、今だけは。
目を逸らすな。
準備をする。
鍵を持つ。
財布を確認する。
それだけで、十分だった。
ドアの前に立つ。
手をかける。
止まる。
ほんの一瞬。
それでも。
戻るという選択は、もうなかった。
ドアを開ける。
夜の空気が、冷たい。
外に出る。
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
足取りは、思ったより軽い。
迷いが消えたからか。
それとも。
すでに、すべてを失っているからか。
わからない。
ただ進む。
山へ。
久しぶりだった。
あの場所に向かうのは。
忘れたことはなかった。
思い出さないようにしていただけで。
道は、体が覚えている。
暗い道。
街の灯りが、少しずつ遠ざかる。
代わりに、闇が深くなる。
風の音。
木々のざわめき。
どこかで、聞いた音。
どこかで、感じた空気。
胸の奥が、ざわつく。
それでも。
止まらない。
(……ここだ)
山の入り口に立つ。
暗闇の中。
見覚えのある輪郭。
変わっていない。
十年前と、同じまま。
ゆっくりと、一歩踏み出す。
土を踏む感触。
その瞬間。
全身に、記憶が戻る。
あの夜。
あの空気。
あの感覚。
息が、浅くなる。
それでも。
進む。
奥へ。
深く。
逃げずに。
目を逸らさずに。
勇は、あの場所へと歩いていった。




