壊したもの
その日は、些細なことだった。
ほんの一言。
ほんの小さなすれ違い。
それだけのはずだった。
「だから、無理しなくていいって言ってるじゃないですか」
美咲の声。
やさしいはずの言葉。
なのに、胸の奥で何かが弾ける。
「……わかってるよ!」
気づけば、声を荒げていた。
部屋の空気が、一瞬で変わる。
静まり返る。
美咲が、目を見開く。
咲も、動きを止める。
それでも、止まらなかった。
「いちいち言わなくても——」
言葉が、荒くなる。
抑えが、効かない。
そしてとうとう。
——手が、出た。
短く乾いた音。
でも、決して消えない音。
時間が止まる。
自分でも何をしたのかわからない。
ただ目の前の現実だけが、はっきりしている。
頬に手を当てる、美咲。
何も言わない。
咲が、小さく息を呑む。
その音だけが、やけに大きく響く。
「……っ」
遅れて、理解が追いつく。
やってしまった。
取り返しのつかないことを。
「……ごめん」
声が、震える。
すぐに頭を下げる。
「本当に……悪かった」
何度も繰り返す。
言葉が足りない。
何を言っても、足りない。
美咲は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……大丈夫です」
静かな声。
怒りではない。
悲しみでもない。
受け止めているような声。
それが、余計に胸を締めつける。
咲は、何も言わない。
ただ勇を見ない。
そのまま、母のそばに寄る。
小さく、震えている。
その姿が、何よりも刺さる。
その夜。
謝罪は、受け入れられた。
形の上では元に戻った。
はずだった。
でも戻っていない。
何も戻っていない。
咲は、距離を取るようになった。
目を合わせないし、近づかない。
もう笑わない。
そして夜になると、静かに泣く。
その声を、壁越しに聞く。
何も出来ない。
ただ、聞いていることしかできない。
(……俺が)
全部、自分のせいだ。
守るはずだった。
壊さないと決めた。
それなのに。
自分の手で、壊した。
取り返しのつかない形で。
数日後。
「……少し、実家に戻ろうと思います」
美咲が言う。
落ち着いた声。
決意は、はっきりしていた。
「咲も、連れて」
その言葉に、何も返せない。
当然だった。
むしろ、そうするべきだとわかっていた。
「……ああ」
小さく、うなずく。
「そのほうが……いい」
自分の口から出た言葉。
それが、現実になる。
この家から、ふたりがいなくなる。
それが。
正しいと、思ってしまった。
数日後。
家は、静かになった。
あの声も。
あの笑いも。
もうない。
残っているのは、自分だけ。
西暦2005年。
2度目の、その年が訪れる。
勇は、ひとりだった。




