ひび
朝。
「……ねえ」
美咲の声。
テーブルに並んだ朝食。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
「最近、どうしたんですか?」
やわらかい声。
でも少しだけ慎重な響きが混ざっている。
「何が?」
視線を逸らしたまま、答える。
「……疲れてるみたいですし」
「仕事が立て込んでるだけだ」
短く言う。
それで終わらせるつもりだった。
でも美咲は、少しだけ言葉を探して。
「無理、してません?」
その一言。
胸の奥が、わずかに揺れる。
「してない」
すぐに返す。
間を置かず考えないように。
それ以上、続けさせないように。
沈黙が落ちる。
箸の音だけが、静かに響く。
以前なら。
こんな空気にはならなかった。
何気ない会話が、続いていた。
笑いも、あった。
でも今は。
どこかで、引っかかっている。
小さな違和感。
それが、消えない。
咲が、様子をうかがうようにこちらを見る。
「パパ」
「……ん?」
「だいじょうぶ?」
その一言。
まっすぐな目。
逃げ場のない視線。
心臓が、強く鳴る。
「……ああ」
無理に、笑う。
「大丈夫だ」
そう言いながら。
自分でも、それが嘘だとわかっている。
咲は、少しだけ考えて。
「そっか」
それだけ言って、また食事に戻る。
何事もなかったように。
でもその“何事もなさ”が、逆に刺さる。
夜、帰宅。
リビングの明かりがついている。
いつもの光景。
なのに。
ドアを開ける前に、ためらう。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
確かに、前とは違う。
中に入る。
「おかえりなさい」
美咲の声。
「おかえり」
咲の声。
いつも通り。
何も変わらない。
でも、どこかで噛み合っていない。
食卓で会話はある。
でも続かない。
少しの沈黙。
また会話。
また途切れる。
以前のような流れが、戻らない。
咲が、ふと口を開く。
「ねえ」
「ん?」
「パパ、最近こわい顔してる」
その一言。
時間が、止まる。
「……そんなことない」
すぐに否定する。
でも声が、少しだけ硬い。
咲は、首をかしげる。
「してるよ」
あっさりと、言う。
悪気はない。
ただ、見たままを言っているだけ。
それが、わかる。
だからこそ。
逃げられない。
美咲が、静かに口を開く。
「……無理しないでください」
やさしい声。
でもその奥に、心配がある。
不安がある。
勇は、何も言えない。
言葉が、出てこない。
ただ、うなずくことしかできない。
「……ああ」
短く。
それだけ。
その夜。
布団に入り目を閉じる。
眠れない。
隣で、美咲が静かに眠っている。
その寝息が、遠く感じる。
同じ空間にいるのに。
どこか、離れている。
手を伸ばそうとして。
止まる。
触れていいのか、わからなくなる。
(……守るって)
何だったのか。
考える。
でも、答えは出ない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
もう日常は、ひび割れている。
音もなく、静かに。
でも確実に。




