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やり直しの終わりに  作者: カンヌワルト
第2章1995年
33/43

ひび

 朝。


「……ねえ」

 美咲の声。

 テーブルに並んだ朝食。

 湯気が、ゆっくりと立ち上る。

「最近、どうしたんですか?」

 やわらかい声。


 でも少しだけ慎重な響きが混ざっている。

「何が?」

 視線を逸らしたまま、答える。


「……疲れてるみたいですし」

「仕事が立て込んでるだけだ」

 短く言う。

 それで終わらせるつもりだった。


 でも美咲は、少しだけ言葉を探して。

「無理、してません?」

 その一言。

 胸の奥が、わずかに揺れる。


「してない」

 すぐに返す。

 間を置かず考えないように。

 それ以上、続けさせないように。


 沈黙が落ちる。

 箸の音だけが、静かに響く。

 以前なら。

 こんな空気にはならなかった。

 何気ない会話が、続いていた。

 笑いも、あった。


 でも今は。

 どこかで、引っかかっている。

 小さな違和感。

 それが、消えない。

 咲が、様子をうかがうようにこちらを見る。


「パパ」

「……ん?」

「だいじょうぶ?」

 その一言。

 まっすぐな目。

 逃げ場のない視線。

 心臓が、強く鳴る。


「……ああ」

 無理に、笑う。

「大丈夫だ」

 そう言いながら。

 自分でも、それが嘘だとわかっている。

 咲は、少しだけ考えて。


「そっか」

 それだけ言って、また食事に戻る。

 何事もなかったように。

 でもその“何事もなさ”が、逆に刺さる。


 夜、帰宅。

 リビングの明かりがついている。

 いつもの光景。

 なのに。

 ドアを開ける前に、ためらう。

 ほんの一瞬。


 それだけなのに。

 確かに、前とは違う。

 中に入る。

「おかえりなさい」

 美咲の声。

「おかえり」

 咲の声。

 いつも通り。

 何も変わらない。


 でも、どこかで噛み合っていない。

 食卓で会話はある。

 でも続かない。


 少しの沈黙。

 また会話。

 また途切れる。

 以前のような流れが、戻らない。


 咲が、ふと口を開く。

「ねえ」

「ん?」

「パパ、最近こわい顔してる」


 その一言。

 時間が、止まる。

「……そんなことない」

 すぐに否定する。

 でも声が、少しだけ硬い。


 咲は、首をかしげる。

「してるよ」

 あっさりと、言う。

 悪気はない。

 ただ、見たままを言っているだけ。

 それが、わかる。

 だからこそ。

 逃げられない。


 美咲が、静かに口を開く。

「……無理しないでください」

 やさしい声。

 でもその奥に、心配がある。

 不安がある。


 勇は、何も言えない。

 言葉が、出てこない。

 ただ、うなずくことしかできない。

「……ああ」

 短く。

 それだけ。



 その夜。

 布団に入り目を閉じる。

 眠れない。

 隣で、美咲が静かに眠っている。

 その寝息が、遠く感じる。


 同じ空間にいるのに。

 どこか、離れている。

 手を伸ばそうとして。

 止まる。

 触れていいのか、わからなくなる。


(……守るって)

 何だったのか。

 考える。

 でも、答えは出ない。

 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 もう日常は、ひび割れている。

 音もなく、静かに。

 でも確実に。


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