もう一度
仕事も、家庭も。
変わらず続いていた。
朝は出勤し、夜は帰る。
部下に指示を出し、上司と話をする。
ミスはない。
評価も落ちない。
すべて、うまくやれている。
家に帰れば。
「おかえりなさい」
美咲の声。
「パパ、おかえり!」
咲の笑顔。
食卓には、温かい料理。
笑い声。
何気ない会話。
完璧だった。
どこにも、欠けているものはない。
——勇を除けば。
西暦2004年。
美咲は専業主婦になり、家にいる時間が増えた。
咲も進級し、少しだけ背が伸びた。
家庭は、毎日楽しげな空気に満ちている。
変わらない。
何も、変わらない。
なのに、胸の奥だけが、壊れ続けていた。
夜。
ひとりで、リビングに座る。
テレビはついている。
音は、入ってこない。
視線は、どこにも定まらない。
(……もう)
限界だった。
考えないようにしても。
見ないようにしても。
消えない咲の言葉。
忘れられない咲の目。
あの夜の記憶。
すべてが、繋がりかけている。
もう、誤魔化せないところまで来ている。
それでも。
壊したくなかった。
この家を。
この時間を。
この“家族”を。
(……助けてくれ)
ふと、思う。
あのとき。
崖の上で。
すべてを失ったあの瞬間。
願った。
やり直したいと。
そして叶った。
この時間を、与えられた。
なら、もう一度。
(……頼む)
誰に向けるでもなく。
ただ、心の中で。
言葉を落とす。
(もう一度だけでいい)
このまま、続けさせてくれ。
気づかないままでいい。
知らないままでいい。
このまま壊れずに。
終わらせてくれ。
静かな部屋。
返事はない。
何も起きない。
当然だった。
それでもしばらくの間。
そのまま動けなかった。
やがて。
ゆっくりと、目を閉じる。
胸の奥で、ひとつだけはっきりとする。
もう逃げ切ることは、できない。
それでも。
願わずには、いられなかった。
この時間が、続くことを。
ただ、それだけを。




