近づくもの
咲は、小学生になった。
ランドセルが、少し大きく見える。
「いってきます!」
玄関で、元気に手を振る。
「ああ、気をつけろ」
その背中を見送る。
ドアが閉まる。
静かになる。
ふと、立ち尽くす。
(……変わらないな)
そう思う。
日常は、変わらない。
仕事も、家庭も。
すべて、順調なまま。
なのに。
胸の奥だけが、ざわついている。
それはもう、違和感ではなかった。
言葉にすれば——
疑念。
そして。
それが、形を持ち始めている。
夜、眠れない。
目を閉じる。
暗闇。
土の匂い。
冷たい空気。
——視線。
はっとして、目を開ける。
呼吸が荒い。
汗が、背中に張り付く。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
夢だ。
わかっている。
でも。
感覚が、消えない。
あのときの。
あの夜の。
——目。
ベッドから起き上がる。
水を飲む。
手が、わずかに震えている。
(……なんで今さら)
あのことは、終わったはずだ。
忘れてはいない。
でも、押し込めてきた。
それなのに。
最近になって、頻繁に夢に出てくる。
理由は、わかっている。
考えたくない。
でも。
無視できない。
咲の言葉。
咲の視線。
咲の“知っている”という感覚。
それらすべてが——
繋がり始めている。
(……まさか)
頭の中で、言葉が形になりかける。
すぐに、打ち消す。
(違う)
ありえない。
そんなはずがない。
咲は、自分の娘だ。
あのときの——
そこまで考えて、止まる。
呼吸が、乱れる。
夜は、深い。
静まり返った家。
廊下に出る。
足音を殺す。
咲の部屋の前で、止まる。
ドアを、少しだけ開ける。
暗い中。
小さな寝息。
ベッドの上で、静かに眠っている。
その姿は、ただの子どもだった。
やわらかい髪。
穏やかな顔。
何の疑いもない。
無垢な存在なのに。
どうしても、重なる。
あの夜の記憶と。
あの目と。
あの距離と。
(……違う)
何度も、繰り返す。
そう思わなければ、立っていられなかった。
そっと、ドアを閉める。
背を預ける。
息を吐く。
冷たい空気が、肺に入る。
そして、はっきりと理解する。
もう。
戻れないところまで来ている。
疑念は、消えない。
むしろ。
日を追うごとに、確信に近づいている。
それでも。
答えだけは、まだ口に出来なかった。




