言葉
ある夜
「パパ、これ読んで」
咲が、絵本を差し出す。
「ああ」
受け取る。
何度も読んだ、いつもの一冊。
隣に座る。
ページを開く。
声に出して読む。
同じ言葉。
同じ流れ。
でも、咲は毎回同じところで笑う。
それが、少しだけうれしい。
読み終える。
「もう一回」
「好きだな、これ」
苦笑しながら、もう一度開く。
ページをめくる。
途中で。
ふと、咲が口を開く。
「ねえ、パパ」
「ん?」
視線は、絵本のまま。
「ここ、暗いよね」
ページの中の、森の絵。
「ああ、ちょっとな」
軽く答える。
「でも、大丈夫だよ」
いつものように、安心させるように言う。
すると咲が、静かに続ける。
「うん。でもね」
ページを指さす。
その指が、止まる。
「ここに、穴があるんだよ」
一瞬、手が止まる。
「……穴?」
聞き返す。
絵本には、そんなものはない。
ただの森の絵。
でも咲は、まっすぐその一点を見ている。
「うん」
当たり前のように、うなずく。
「落ちるとね」
少しだけ、声を潜める。
「もう、戻れないの」
空気が、止まる。
ページを持つ手に、力が入る。
(……なんだ、それ)
心臓が、わずかに跳ねる。
ただの想像だ。
子どもの言葉。
そう思う。
思うのに。
耳に残る。
「……どこでそんなこと覚えた?」
できるだけ、普通に聞く。
咲は、少し考えてから。
「わかんない」
首をかしげる。
「でもね」
顔を上げる。
目が合う。
まっすぐで。
逃げ場のない視線。
「知ってるの」
その一言。
胸の奥が、冷える。
何も言えない。
言葉が出てこない。
ただその目を、見てしまう。
——あのときと、同じ。
咲は、すぐに笑う。
「つづき、読んで」
何事もなかったように。
絵本を指さす。さっきまでの空気が、嘘みたいに消えている。
勇は、ゆっくりとページを見る。
ただの絵。
ただの物語。
——のはずなのに。
喉が、乾く。
「……ああ」
声が、少し掠れる。
続きを読む。
言葉を並べる。
でも。
頭の中には、さっきの声が残っている。
“落ちると、戻れない”
“知ってるの”
ページをめくる手が、わずかに震える。
隣では、咲が楽しそうに聞いている。
その無邪気さが、余計に現実を歪める。
読み終える。
「……おしまい」
「もう一回」
いつもの声。
いつもの流れ。
なのに。
もう、同じではなかった。
勇は、絵本を見つめたまま。
ほんのわずかに——
息を飲んだ。




