少女
車の中は、やけに静かだった。
エンジンは止めてある。
窓の外では、風に揺れる木の葉がかすかに擦れる音だけがする。
助手席に、小さな影。
10歳くらいだろうか。
少女は、何も言わない。
さっきまで泣いていたはずなのに、今はただ、じっとしている。
その沈黙が、かえって重かった。
勇はハンドルに手を置いたまま、動けずにいた。
(……終わらせるだけだ)
そう思う。
ここまで来たんだ。
あとは、解放すればいい。
金は手に入った。
約束通り、返せばいい。
それで——全部終わる。
そういうはずだった。
「……あの」
かすかな声。
びくりと肩が揺れる。
視線を向けると、目覚めたばかりの少女がこちらを見ていた。
暗がりの中でも、はっきりとわかる目。
まっすぐで、逃げ場のない目。
「おじさん……」
その呼び方に、胸の奥がざわつく。
ただの呼びかけのはずなのに、なぜか引っかかる。
勇は視線を逸らした。
「……もうすぐだ」
自分でも驚くほど、声は普通だった。
「帰れる」
嘘ではない。
そのつもりだった。
ドアに手をかける。
外に出て、どこかに置いていく。
それで終わり。
そう決めている。
なのに——
手が動かない。
(何やってんだ、俺は)
苛立ちがこみ上げる。
ここで止まる理由なんてない。
これはただの手順だ。
間違っていない。
誰も傷つけるつもりはなかった。
最初から、そうだった。
「……お父さん、怒ってるかな」
少女が、小さくつぶやく。
その言葉に、思考が止まる。
父親。
家族。
そんな言葉、今の自分には関係ないはずなのに。
頭の奥で、何かが引っかかる。
知らないはずの感情が、にじむ。
「……知らない」
吐き捨てるように言う。
それ以上、考えたくなかった。
ドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
これで終わる。
終わらせる。
そのとき。
少女の視線が、まっすぐこちらに向いた。
暗闇の中で、はっきりと目が合う。
逃げ場のない、認識。
——見られた。
その確信だけが、頭を貫いた。
(まずい)
理屈じゃない。
ただ、それだけが全身を支配する。
ここで離せば、終わる。
すべてが終わる。
もう戻れない。
「……やめろ」
何を止めたいのか、自分でもわからないまま。
声が、震える。
次の瞬間。
拳は、振り下ろされていた。
2005年の夏だった。




