第九章 終焉
静寂に包まれたホールの中で、悠也はコンソールにもたれかかり、荒い息を繰り返した。ナノマシン・コアは完全に停止した。
彼は、床に崩れ落ちたアヤメに駆け寄った。彼女の背中から伸びていた触手は消え、ワンピースは破れているものの、体は動かない。その透き通るような肌は血の気を失い、まるで精巧な人形のように冷たい。
「アヤメ!目を覚ませ!アヤメ!」
悠也は彼女を抱き起こし、強く揺さぶったが、反応はない。
彼女の体内にあったナノマシン・コアが停止したことで、彼女の生命活動も停止してしまったかのようだった。
ホールの奥から、ニャルラトホテプがゆっくりと歩み寄ってきた。彼は、周囲に転がる警備員の死体や、硬直した適合体を見ても、ニコニコとした笑みを崩さない。
「ハハハ。本当に、つまらない結末だ。だが、許そう」
ニャルラトホテプは、悠也とアヤメを見下ろした。
「君のおかげで、少しだけ楽しめたよ、七瀬の息子。この島のナノマシンは、僕が持ってきたクトゥルフの遺伝子によって創られた最高の玩具だった。だが、これで電源が落ちた。君の勝利だ」
彼は、悠也に背を向けた。
「しかし、ゲームは続く。この地球には、まだまだ面白いことがたくさんある。また会おう、英雄さん。その時は、もっと面白い鍵を持ってくることを期待するよ」
そう言い残すと、ニャルラトホテプは、エレベーターの方へ向かい、音もなく姿を消した。彼の去った後には、深海のような冷たい空気だけが残された。
悠也は、ただ一人、死と静寂に包まれた最下層ホールに取り残された。
「クソッ……」
彼は、無反応なアヤメを抱きしめたまま、絶望に打ちひしがれた。父の遺志は継げた。島も、世界も救えた。だが、代償として、彼女の命を奪ってしまった。
その時、ホールの一番奥にある、破壊されたメインスクリーンの残骸に、ノイズと共に映像が映し出された。
映し出されたのは、黒いスーツに身を包んだ、もう一人の男。彼の顔は、つい先ほどアヤメの触手に殺されたはずの如月会長と瓜二つだった。
「やあ、七瀬君。驚いたかね?」
その如月会長は、悠也に向かって、冷笑を浮かべた。
「そこにいるのは、私の影武者だ。まさか、ニャルラトホテプごときが、この私を完全に欺くことができるとでも思ったか?彼は、ただの強力な触媒に過ぎない。愚かな神の使いめ」
悠也は、絶句した。すべてが、この男の手のひらの上だったというのか。
「お前の父の鍵でナノマシン・コアを停止させたのは、むしろ好都合だ。これで、暴走の危険性が完全に消えた」
会長は、冷徹に告げた。
「だが、お前が鍵を使い、私の計画を公にする危険性だけは残った。故に、ここでお終いだ」
会長は、キーパッドに指を走らせた。
「おめでとう、七瀬君。お前は、ルナ・コア島の自爆シーケンスを起動させた。
五分後に、ナノマシン技術の全ての痕跡は、深海の底へ消える。もちろん、お前たちもな。
証拠隠滅には、これが一番だ」
スクリーンが自爆シーケンス:5分という文字と共に赤く点滅し始めた。
悠也は、絶望的な状況を悟った。エレベーターは停止し、出口はない。残された道は、アヤメが話していた緊急脱出装置のみ。
彼は、アヤメを抱きしめた腕に、力を込めた。彼女の体が、最後の温もりを失っていくのを感じる。
その時、悠也はハッとした。
彼の額から流れ落ち、アヤメの顔に滴り落ちていた血が、彼女の唇に触れていた。彼女の体内に停止していたナノマシン・コアが、その生体認証を、わずかに、しかし明確に感知したのだ。
微かに、アヤメの指が動いた。
「……ゆ……う……や……」
彼女の透き通るような瞳が、ゆっくりと開いた。その眼差しは、再び生気を取り戻していた。
「アヤメ!」
「……わ……たし……」アヤメは、弱々しい声で呟いた。「生きてる……?あなたの……血が……」
悠也は、その奇跡に、涙をこらえきれなかった。父の「鍵」は、ナノマシンの制御を奪うだけでなく、血縁の生命力を介して、適合者の生命を再起動させる、最後の生命線でもあったのだ。
「脱出するぞ、アヤメ!」
悠也は、奇跡的に蘇ったアヤメを抱きかかえ、最後の希望である「緊急脱出装置」がある、ホールの奥へと走り出した。
彼の背後で、島の崩壊が、静かに、そして確実に始まろうとしていた。




