第八章 暴走
ホール全体が、静寂と警報音の奇妙な共鳴に支配されていた。椅子に拘束された悠也とアヤメ、そして武装警備員たちに囲まれた如月会長。
全ての視線が、不気味な笑みを浮かべるニャルラトホテプに集まっていた。
「ニャルラトホテプ……」如月会長は、その名を恐怖に震えながら口にした。「なぜだ!貴様は、私に神の力を与え、世界を支配させると言ったはずだ!」
ニャルラトホテプは、肩をすくめた。その笑みには、心底つまらないものを見たような退屈の色が浮かんでいた。
「ハハハ。世界支配?そんな凡庸なことを僕が望むとでも?あれは、君が**『私に協力する』**ための餌だよ、会長。君の野心はあまりに単純で、操りやすかった」
彼は悠也の方に顔を向けた。
「そして君、七瀬賢人の息子よ。君にこの最終鍵のヒントを渡したのは、君の父親だ。七瀬賢人は、僕が裏で糸を引いていることに気づいていた、数少ない人間の一人だった」
悠也は、強い怒りを込めて睨みつけた。「父さんは、お前を止めたかったんだ!」
「止める?ハハハハ!」ニャルラトホテプは声を上げて笑った。「彼は最後まで、あの鍵に僕への嫌がらせのコードを仕込もうとしていた。彼には、人類愛という、滑稽な情があったからね。僕の計画が完全に成就するのを、少しでも遅らせたかったんだろう」
ニャルラトホテプは、再び退屈そうな表情に戻った。
「だが、残念だ。君は、その鍵を僕に渡してくれた。そして、君の父親の遺志も、この僕の娯楽を面白くするほど、全く役に立たなかった。もう飽きたな」
彼は、悠也とアヤメ、そして如月会長を一瞥した。
「さあ、ショータイムだ。これで、この島全体が僕の実験場となる」
ニャルラトホテプは、悠也たちを繋ぐ拘束ロープには目もくれず、ホールの中心に並ぶ巨大なガラスカプセルに手をかざした。
「目覚めよ、深き者ども。汝らの真の力を解き放て」
その瞬間、青みがかった液体に満たされたカプセル群が一斉に激しい光を放った。カプセルの中で眠っていた異形の適合体たちが、痙攣し、その体から伸びる触手をガラスに叩きつけ始めた。
ウォン!ウォン!ウォン!
警報音は最高潮に達し、ホールの床と壁が激しく振動する。
「あああああ……!」
椅子に拘束されていたアヤメの体が、激しく共鳴し始めた。彼女の体内に埋め込まれたナノマシン・コアが、目覚めた適合体たちの力に引っ張られ、暴走を始めたのだ。
アヤメのワンピースの背中部分が裂け、黒い触手が飛び出す。それは、五年前の映像で見た、父を殺した破壊の権化だった。
「ひ、ひぃぃ!」
触手はまず、アヤメを拘束していたロープと椅子を、一瞬で引き裂いた。
アヤメの意識は、既にナノマシンの暴走に呑み込まれていた。触手は制御不能な破壊衝動に従い、最も近くにいた者へと襲いかかった。
ブチッ、バキバキッ!
武装警備員の一人が、触手に胴体を貫かれ、コンソールに叩きつけられる。他の警備員たちは、パニックに陥り、意味をなさない銃撃を始めた。
「この、化け物が!やめろ!」
如月会長は、逃げようと床を這ったが、暴走したアヤメの触手が、彼の背中に迫る。
「ニャルラトホテプ!助けろ!お前が制御できるのだろう!」
「残念ながら、僕はただの観客でね」ニャルラトホテプは、ニコニコした笑みを浮かべたまま、悠也たちから距離をとった。
触手は、如月会長を容赦なく掴み、空中へと吊り上げた。会長の最後の悲鳴は、カプセルの破壊音と警報に呑み込まれた。
阿鼻叫喚の混乱の中、悠也は、アヤメが椅子を破壊した際に生じた衝撃で、手首を縛っていたロープがわずかに緩んだことに気づいた。彼は力を込めてロープを引きちぎり、拘束を解いた。
「アヤメ!」
悠也は叫んだが、暴走する彼女に声は届かない。彼女の背中から伸びた触手は、すでに周囲のコンソールを破壊し尽くし、カプセルから這い出し始めた他の適合体たちと呼応し始めていた。
悠也に残された時間は、わずかだ。
彼は、破壊されたコンソールと、如月会長がコードを入力した巨大な制御コンソールへと、一目散に駆け出した。
「父さん……父さんなら、必ず、バックドアを作っているはずだ!」
悠也は、コンソールの上に、如月会長が放置していった写真の裏の数列を再度確認した。
『4-LUNA-C-724-ORP-X』
彼は、これが「譲渡コード」ではない、ナノマシンの「停止コード」として機能するように、別の隠された入力シークエンスを探し始めた。指が、使い慣れたキーパッドの上を、必死に彷徨う。
悠也の体は、先ほどの拘束と逃走で満身創痍だった。熱くなった額から、何かが伝って落ちてくるのを感じた。
彼はコンソールパネルを掴んだまま、古い写真を広げた。父と写る、唯一の手がかり。
その裏には、如月会長が入力したばかりの、あの謎の数列が書かれている。
『4-LUNA-C-724-ORP-X』
「譲渡コードじゃない。停止コードだ。父さんは、必ず…」
悠也は、パネルに手を這わせ、父の設計思想を辿るように、隠された入力ポートや初期設定のバックドアを探した。しかし、最新の如月テクノロジーズのシステムは、そんな甘い穴を許さない。
その時、ポタリ、と生温かい液体が写真の表面に落ちた。
悠也が額を拭うと、指先に血が付着した。先ほど拘束から逃れる際に、頭部を何かにぶつけたのだろう。血は、写真の、特に「4-LUNA-C-724」と書かれた部分に滲み、数字を暗く濡らした。
「血……?」
悠也は、その血を見て、思考が一瞬停止した。そして、彼の脳裏に、アヤメが話していた父の言葉が蘇った。
「ナノマシンは、適合者の生体情報と融合する。制御を奪うには、彼らが認識する特別な情報源が必要だ」
写真。数列。そして、血。
悠也は、この数列が、単なるパスコードではなく、生体認証を兼ねた初期シードではないかと直感した。
父が、最も信頼する「特別な情報源」として、自分の血筋を残したのではないか。
彼は、震える指で、コンソールの入力パネルに、滲んだ血が付着した写真を押し付けた。
そして、その上に、数列を再度入力した。
『4-LUNA-C-724-ORP-X』
入力完了。悠也は、祈るように最終ボタンを押した。
ピーッ!ガガガガガ!
コンソールは、先ほどとは違う、激しいノイズを上げ始めた。
『緊急警報:コア制御権、外部より上書き。全システム、認証シーケンス再開』
成功だ!数列は、血という「生体情報」と組み合わせることで、父が仕込んだ真の『バックドア』として機能したのだ。
しかし、猶予はない。
ホールの奥では、ニャルラトホテプがニコニコとした笑みを浮かべたまま、この展開を静かに見守っている。そして、アヤメの暴走は止まっていない。
悠也は、コンソール画面に表示された膨大なデータコードの中から、五年前の映像で父が入力しようとしていた緊急停止コードのシークエンスを探し始めた。
「頼む、父さん……!」
彼の指が、キーボードの上を猛スピードで叩く。
その入力の先には、アヤメの「命」と、この島の「終焉」がかかっていた。
悠也の血によって起動されたバックドアは、コンソール画面に、如月テクノロジーズの表向きのインターフェースとは異なる、旧式のデバッグメニューを開いた。それは、父・賢人が五年前に残した、最後の防御システムだった。
しかし、暴走は止まらない。ホールの中は、耳をつんざく警報音、適合体たちの唸り、そしてアヤメの背中から伸びた触手がコンクリートを叩き割る音で満ちていた。
悠也は、指先がちぎれるほどの速さで、膨大なログデータとシステムコードの中から、緊急シークエンスを探した。
「どこだ、父さん!どこなんだ!」
その時、画面の隅に、他のメニューとは異なる、オレンジ色に点滅する項目が飛び込んできた。それは、何の警告文も表示されていない、ただ一つのコマンドだった。
[Final_Override: System_KILL]
その横には、巨大なアイコンが描かれていた。間違いなく、父が残した「最終停止コード」を発動させるための、緊急停止ボタンだ。
悠也がそれをクリックしようとした瞬間、背後の床が爆発した。
アヤメの触手の一本が、彼を狙って振り下ろされたのだ。悠也は間一髪で身を捻り、触手はコンソールの横を叩き割り、火花が散る。
「くっ!」
悠也は、痛みと恐怖を押し殺し、再びコンソールに飛びついた。暴走し、苦しみに歪むアヤメの顔が、彼の視界の隅に映る。彼にはもう、迷う時間も、躊躇する時間もなかった。
ドンッ!
悠也は、渾身の力を込めて、そのオレンジ色の停止ボタンを、画面越しに叩きつけた。
次の瞬間、地下ホールを支配していた、ありとあらゆる音が、完全に、消滅した。
けたたましい警報音。
ナノマシン・コアの重低音の唸り。カプセルから這い出ていた適合体たちの唸り声。そして、暴走していたアヤメの激しい息遣い。
すべてが、停止した。
ホールを照らしていた赤色灯は、瞬時に消え、白い非常灯だけが静かに点灯した。激しく点滅していたコンソール画面は、SYSTEM SHUTDOWN: Completeという無機質な文字を表示するのみとなった。
まるで、世界から命の息吹が引き抜かれたかのような、深すぎる静寂が訪れた。
アヤメの背中から伸びていた黒い触手は、まるで力を失った糸のように垂れ下がり、彼女の体はコンクリートの床に、ガクリと崩れ落ちた。
カプセルから這い出ていた適合体たちも、硬直した姿勢のまま、動かなくなった。
悠也は、その静寂の中で、荒い呼吸を繰り返した。成功したのか?
ホールの奥では、瓦礫の影にいたニャルラトホテプが、その状況を静かに見つめていた。彼のニコニコとした笑みは、一瞬も崩れていなかったが、その目には、計画を狂わされたことへの、冷たい怒りの炎が宿っていた。
「ハハハ。やるねぇ、七瀬の息子。本当に、つまらない結末だ」
ニャルラトホテプの声は、この深い静寂の中で、ひどく場違いに、そして恐ろしく響き渡った。




