第十章 脱出
自爆シーケンスの赤色灯が、ホール全体を覆い尽くしていた。
天井の隔壁からは、軋む音と共に水が滴り始め、ルナ・コア島全体が内部崩壊を始めていることを告げていた。残された時間は、わずかだ。
悠也は、奇跡的に蘇生したアヤメを抱きかかえ、緊急脱出装置の前にたどり着いた。それは、深海探査機を思わせる、小型ガラスカプセルだった。
「これだ!アヤメ、早く中へ!」悠也はカプセルのハッチを開けようとした。
しかし、アヤメは悠也の腕を振りほどき、制御コンソールの方へと向かった。
「待って、悠也さん。その前に」
彼女は、驚くべき速さで、破壊されたコンソールから露出していたデータポートに、隠し持っていた小型のデータチップを接続した。
「今、コアに残されていたナノマシン計画の全データ、適合者の全生体情報、そして博士の『最終鍵』の設計をコピーしている。これが、如月テクノロジーズを追及するための、決定的な証拠よ」
データ転送を示す緑のランプが点滅する。
悠也は焦った。
「そんなことは後だ!島が崩れる!早く!」
「終わった」
アヤメはチップを抜き取り、振り返った。その透き通った瞳は、静かな決意に満ちていた。彼女は、そのチップを悠也のポケットに押し込んだ。
「悠也さん。これを、博士の残した使命と共に、この島の外へ持ち出して」
悠也がカプセルに乗り込もうとした、その瞬間、アヤメは一歩後退し、外からハッチを力強く閉めた。
「アヤメ!何を!」
悠也は、ガラス越しに叫んだ。彼はハッチを開けようと内側からノブを回すが、アヤメは既に外部のロック機構を起動させていた。
アヤメは、悲しげな、しかし揺るぎない笑顔で、悠也を見つめた。
「ごめんなさい、悠也さん。この装置は、外から射出操作をしないと動かないの。そして……私自身、ナノマシンの生体コアよ。私は、この島と一緒に、存在してはいけないの」
彼女の言葉は、悠也の胸を強く打った。彼女は、自己犠牲を選んだのだ。
「そんなこと、させない!開けろ、アヤメ!」
悠也がガラスを叩くその横で、アヤメは射出コンソールに最後のコードを入力した。
「元気でね、悠也さん」
アヤメの顔に、最後の安堵の笑みが浮かんだ。
ドォンッ!!
凄まじい爆発音と共に、ガラスのカプセルは、海底へと向かって射出された。激しい水流に揉まれながら、悠也は、カプセルの窓越しに、アヤメのいるホールを見た。
ホール全体に海水が流れ込み、水圧で構造が砕け散る。アヤメの姿は、水と瓦礫の中に消えていった。
カプセルが深海へと沈んでいく間、悠也の目には、ルナ・コア島全体が、自爆と崩壊によって、海の深い青色の中に飲み込まれ、闇へと消えていく光景が焼き付いていた。
海面へと浮上したガラスのカプセルは、夜の海面へと浮かび上がった。
どのくらい時間が経っただろうか。
水平線に、一筋の光が見えた。警備艇のサーチライトだ。
悠也は、警備艇の甲板へと引き上げられた。
「無事か、七瀬君!」
甲板で待っていたのは、スーツ姿の、痩せた中年男性だった。
男は、悠也の顔の前に、控えめだが確かな、警察庁のシンボルマークを提示した。
「静かに。私は公安の者だ」
男は、悠也の濡れた肩に手を置いた。
「我々は、如月テクノロジーズの裏の活動を長年追っていた。君の七瀬賢人博士も、我々の重要な協力者だった」
悠也は、ポケットの中のデータチップを握りしめた。
「父は、そのバックドアを完成させた。そしてアヤメが、命と引き換えに、その証拠を僕に託したんだ」
男は、悠也の手の中のデータチップをちらりと見た。
「そうか。君は、博士の最後の意志を継いだ。
だが、戦いは終わっていない。君には、そのための『証人』として、そして『情報源』として協力してもらう」
「……わかりました。父が何を託したのか、すべて話します。それが、アヤメの、そして博士の願いだから」
悠也の瞳には、かつての学生としての迷いは消え、未来を見据える強い決意が宿っていた。
彼の戦いは、今、この公安の警備艇の上から、静かに幕を開けたのだった。




