第5話 夜の明星高校
太陽はとっくに落ち、月明かりも雲に途切れて頼りない。今や明星高校には許可を得た一部の生徒しか残っていない。灯りは実習棟にぽつぽつと見えるだけ。昼とは違う明星高校の顔、夜に取り囲まれた空間。およそ学び場ではなくなった建物に、まだ夜の浸食に気づいていない教室が一つあった。ミステリー研究会の部室である。
芹澤ミヤコは部室のソファで足を投げ出し、頭に手を組みながら英気を養っていた。目を瞑り、完全なリラックス状態。準備万端。しかし、心の中では、どうせなにも起こらない。くだらないデマに決まっている。そう高を括っていた。
信田リカがゆさゆさと肩を優しくゆすり「ミヤコ先輩、起きてください」と呟いた。
「寝てないよー」
「あ、そうだったんですか。そろそろ行きましょう。時間もいい頃ですし」
ミヤコはスマートフォンをつけ、片目を開けて確認する。20:45。立ち上がり、大きく伸びをする。血流が巡るようで気持ちがいい。頭も冴えている。その場で軽くストレッチをして、手足を温める。そして、黒革手袋をぎゅっと付け直した。
「よし。行こうか。いざ出陣」
「出陣っ!」
ここまでは良かった。
芹澤ミヤコが懐中電灯片手に部室の扉を開けた時、目の前には別世界が広がっていた。クーラーが消され生暖かい空気に満ち、廊下を照らす灯りは乾いた音を立て、辺りはしんと静まり返っている。そして、窓の外に広がる教室棟は灯り一つない闇の砦と化していた。今からあそこに乗り込む。芹澤ミヤコはごくりと生唾を飲んで、二の足を踏んだ。
「先輩?どうしましたか?」
「……えっ?い、いや。なんでもないよ。いこっか」
「はい。ワクワクしますね……!」
「うん……」
廊下に出る。蛍光灯の灯りが明滅し、積み上げられた大道具の影を揺らす。ミヤコ達は廊下を進んでいく。靴音がこんなに響くものだったか。コツ、コツと二人が歩む音が闇の中に吸い込まれていく。自分の呼吸ですら、夜気を震わせる雑音のように思える。窓にカツンっと虫が当たるたびに、身体が反応してしまった。
渡り廊下まで来た。教室棟に進みにつれて、墨を流したように闇が濃くなる。芹澤ミヤコと信田リカは懐中電灯を灯した。二つの光が足元を白く浮かびあがらせたが、それ以外は一層暗くなった気がする。
「……ふぅ。リカ。大丈夫?」
「……?なにがですか?」
「……何でもない。早く終わらせよう」
「あ、じゃあ、ミヤコ先輩。二手に分かれましょう!」
ミヤコはリカが何を言っているのかわからなかった。どういう意味だ?と、脳が咀嚼した瞬間、自分が窮地に立たされていることを把握。懐中電灯の明かりが大きくぶれた。こ、この状況で分断!?一人で行く!?正気!?
ミヤコは思わずささやくような声で「なんでぇ!?」と抗議した。オカルトより後輩の提案の方がよっぽど恐怖だ……!だが、無情にもリカには真意が伝わらなかったらしく、そうすることが当然とでも言うように「その方が効率的ですし、こういうのは雰囲気が大切ですからね」とサラリと答えられてしまった。
芹澤ミヤコは心中で悶絶した。怖いので一緒に行って欲しい、なんて口が裂けても言えない。先輩の沽券にかかわる由々しき問題だ。だが、このまま怖がっていることを悟られるのもまずい。先輩の威厳を見せて、リカの提案をすぐに飲まないといけない。
一瞬の逡巡。ミヤコは“通話しながら行けばもっと効率がいいのでは”と妥協案を提示。懇願する思いだった。
「……なるほど。確かにそうですね!さすがですっ!」
無邪気に尊敬のまなざしを向ける信田リカに、芹澤ミヤコは笑顔で答える。その眼には光が宿っていなかった。
◇◇◇
芹澤ミヤコと信田リカはお互いにワイヤレスイヤホンを装着し、通話をオンにした。
「じゃあ、あたしは奥の階段から向かいます。先輩、お気をつけて」
「……うん。リカもね」
リカは廊下の奥、階段の誘導灯を目指して歩き出す。ミヤコはその背中を、行かないでくれ……!という思いで、見送った。正面には四階へと続く階段。窓の外は曇り空。月明かりはミヤコの足元を照らしてくれない。
幽霊なんていない。そう信じている。それでも闇は怖い。闇には形がなくて、境界もなく、何が潜んでいるのか確かめようがない。
――行くか。本当に嫌だけど
ミヤコは重い足に力を入れて階段を上って行く。いつもは一段とばしで上っているのに、この時は一段ずつ、足元を確かめるように踏みしめていた。肌にべたつくような空気を感じながら、足音が階下へと転がり落ちていく。
「リカ、そっちはどう?」
「こちらリカ。まもなく階段に到着する……です。どうぞ」
階段の踊り場。見上げれば四階の廊下が見える。噂ではここで鈴の音が聞こえたらしい。
早く行こう。理科準備室の前まで行って、リカが来るのを待つ。問題なし……!
一歩ずつ上って行き、廊下へ。誘導灯は緑の薄光で怪しく辺りを照らし、時折カリカリと擦るような音を発している。ミヤコは壁際に身を寄せて、顔を覗かせて廊下を見た。空気が滞って湿気のある匂い。闇の奥で火災報知器の赤ランプが浮かんでいる。
「ミヤコ先輩、聞こえますか。こちら、信田リカ。異常ありませんか?」
「だ、大丈夫だよ。リカ。こちら異常ありません」
「……先輩、本当に大丈夫ですか?そっちに……あれ?■■■■」
音声が乱れる。
「先輩、なにか――」
「……リカ?」
電話が切れた……。思わず鼻にかけるように息を吸う。口から大きく吐いて乱れた心を落ち着けた。
引き返そう。うん。リカが心配だし。そうしよう。
そう思った時、
――チリン……
鈴の音が聞こえた。
つづく




