第6話 芹澤ミヤコの疾走
――チリン……チリン……
胸の奥が痛い。心臓が痛いほど脈打っている。背後から鈴の音が聞こえる。
なのに、恐ろしくて振り返ることができない。足も凍りついたように動かない。
“四階に来た人間は、次は私と一緒に帰る”
不意に蘇った言葉が、芹澤ミヤコの思考を奪った。
懐中電灯の灯りがチカチカと明滅し、夜の闇が心を浸食していく。
鈴の音は近づいて来る。近づくにつれて、鼓動が腹の底に響いた。
――チリン……チリン……チリ……
金属の冷たい匂いが鼻をかすめる。
死。
そう、意識した瞬間だった。
――走って
女の声がした。鈴を転がすような、そんな声が。
芹澤ミヤコは弾かれたように動き出した。キュッ!と鋭いスキール音が響く。四階の廊下を、長いポニーテールを靡かせ、駿馬のように駆け抜ける。教室が次々後方に流れていき、理科準備室の前を通り過ぎる。廊下がやけに長く感じたが、今のミヤコは走ることしか考えていなかった。廊下の奥、リカが昇ってくるはずの階段を捉えた。
――チリン……
だが、またしても鈴の音が聞こえた。階段の影から、白いワンピースの女。長く濡れそぼった髪。手はダランと下げられて、生を感じない。
ミヤコは息を呑んだ。このままでは挟み撃ちだ。
迷いはなかった。そのまま、廊下を強く引き絞るように踏み込み、全身のバネを使って放たれたように直進する。目の前に幽霊がいようと、もう止まれない――!
幽霊は後ずさり、背中を見せた。ミヤコの目が猛禽類のようにギラリと光を放つ。
突破する!
芹澤ミヤコはひと際強く地面を蹴り、跳躍。猛スピードで駆け抜けた勢いのまま、幽霊の背中目掛けて脚を突き出した。
瞬間、ミヤコの脳内に子供のころの思い出が走馬灯のように蘇る。
――バリツ。
あの辛い修行の日々。何度も通信教材のDVDで回し蹴りを真似した夜。無駄じゃなかった!
※シャーロック・ホームズが愛用した《《柔術系の護身術》》
「はぁあああああああっ!!」
脚は空を裂く矢のように、幽霊の背中に吸い込まれ――
「ぐへあっ!!」
幽霊はカエルが潰れたような断末魔とともに、つんのめるように倒れ込んだ。ミヤコの心臓は破裂しそう――だが幽霊の方が破裂しそうだった。
芹澤ミヤコは軽やかに手をついて三点着地。空気が静まり返り、冷え切っていた心胆は、滾る血潮ですっかりポカポカ。ミヤコは肩で息をしながら残心した。まさかこんな綺麗に決まるなんて……。やっててよかった……バリツ……。
ミヤコは呼吸を整えながら訝しんだ。目の前でうめき声をあげている幽霊、聞いたことある声だったような……?
その時、スマートフォンが鳴った。音が反響し、ミヤコはびくりと肩を震わせた。確認すると、信田リカの文字、ミヤコは“通話”をタップした。
「せ、先輩!?無事ですか!?今、大きな声がっ!」
「あー、うん。無事無事。もうすっかり落ち着いた。幽霊もやっつけたし」
「へっ……?あ。なるほど!そういうことだったんですね!」
「そっちはどう?今、四階の階段前にいるんだけど。こっち来れる?」
「いえ、さっき電話が落ちてしまって言えなかったんですが、実習棟四階に怪しい人影が見えました。今そちらに向かってます」
「おー!すごい夜目だねぇ!無理しないでね」
「はいっ」
「じゃあ、通話はつけたまんまで。こっちは幽霊見とくから」
「わかりました」
リカの通話からカサカサと紙袋の音がする。お、名探偵エルロックの登場か。この暗い中でよくやる。
さて、こっちはこの幽霊をどうにかしないと。
ミヤコは這いつくばり、逃げようともがく幽霊に近づいて、目の前で仁王立ちした。
「こんにちは。ミステリー研究会部長の芹澤ミヤコです。お話を伺っても?」
幽霊は「うっ」と、声を上げて固まる。この声、男か。華奢だけど、よく見ると男性的な骨格だ。まぁ、この暗さじゃあ気づかないか。
幽霊は頭を守るようにして髪を抑える。無理やり剥がされると思ったのかな。そんなことをしなくても、もう正体がわかってしまった。
芹澤ミヤコは大きくため息をついて、こめかみを掻いた。
「では、単刀直入に。どうしてこんなことをしたんですか?榊原レンさん」
幽霊は観念したかのように、大きく息を吐いた。そして……
「くくく……、実力行使はいけないと思うんだ、芹澤ミヤコ君。本当に痛い」
ウィッグをするりと脱いで素顔が露わになる。濃い顔の癖のある美男、榊原レンが目じりに涙を溜めていた。
芹澤ミヤコはにっこりと笑って「すいません。霊力が無いもので」と、厭味ったらしく言った。
「暴力女め……」
榊原レンは捨て台詞を一つ残すと力尽きたようにガクリと倒れ伏した。
誰が暴力女じゃい。ミヤコはいっそとどめを刺そうかと本気で迷っていたら、イヤフォンを通して、リカの声が聞こえてきた。
「君たち。そんなところでいったい何をしている」
「うえっ!」
「ひゃっ!」
男子と女子の短い悲鳴が聞こえる。早乙女トオルと月城ヒナの声だ。
「おっと、逃げようなんて考えないことだ。君たちはすでに包囲されている」
めちゃくちゃ面白い状況だ。もう少し聞いていたいが、もう真実は明かされた。
「リカ、幽霊の正体は超常現象同好会の会長だった。その二人は会員だよ」
「なるほど……。流石です。ミヤコ先輩。……君たちのボスはすでに逮捕された。抵抗は無駄だ」
「まじかよ……会長が……」
「レン様……」
電話の奥から、落胆の声が聞こえる。いったんミステリー研究会の部室に連行しようか。
「じゃ、ミステリー研究会の部室で集合ね」
「了解です。速く来てくださいね」
通話が切られた。リカも頼もしくなったものだ。
ミヤコは目を離したすきに逃げようとしていた榊原レンの襟首をむんずと掴んだ。
「そして、榊原レンさん。犯人は貴方です。洗いざらい吐いてもらいますよ」
「……まぁいいでしょう。データは揃った。好きにしたまえよ」
月の光が雲の切れ間からあふれ出し、教室棟を照らし出す。廊下を覆っていた深くどこまでも続くような闇が祓われ、吹き抜けるように露わになった。
その先にミヤコは見た。まばたきをする一瞬。廊下の奥で、こちらに向かって小さく手を振るセーラー服を着た女生徒を。
ミヤコは目をこすり、もう一度見てみる。どこにもいない。
……きっと見間違いだろう。ミヤコは榊原レンを叩き起こし、引きずるように階段を下りていく。
……リィン
最初よりも澄んだ音色が、確かに耳を打った。芹澤ミヤコは気が付かないふりをして歩いていく。実習棟を照らす灯り、ミステリー研究会の部室を目指して。
怖いものなんて、どこにもなかった。
つづく




