第71話 想定外
「ふぅ……」
魔王化を解除した私を待っているのは後悔でも悲哀でもない。
何も無い、何も感じない。
静かだ。
あの騎士たちの叫びも、信仰も、覚悟も、全て嘘だったかのような地獄の静寂。
「……不思議だ」
そう、不思議なのだ。
オルフェンとは仲が良かった筈だ。少しだけだが、ソルディア卿とも話をした。
……あのように容易く殺して何も感じないなんて事が考えられるのか?
私はどうなっている?
「腹が減った」
そんな状況でも空気を読まずに減る腹に困惑すら覚える。もう少し理性的な欲求を覚えて欲しいものだ。
オルフェンの所で出された食事は中々だった。
白パンに卵を挟んだブレックファストには感銘を受けたばかりだ。無骨な男だと思ったが、あんなものを客に出す程度には気を使える男なのだと感心した程である。
……やはりおかしい。
感心する程の男を、一度は旅仲間だと思った男を殺しておいて何も無いとは異常だ。
魔神の力の侵蝕か。
さっさとケリを着けなければならないな。
取り返しがつかなくなる前に。
まともな思考ができている内にセラフィエルと戦うべきだ。
もしかすると、今の私の思考すらまともでない可能性がある。それはとてつもない恐怖だ。
異常を正常と思い込ませる精神の侵蝕など、穢れた力の代償として立派な勤めを果たしていると言えるだろう。
大往生などするつもりは無いが、魔神の侵蝕は私の想定以上に早い。
「待っていろよ」
セラフィエルは、すぐ近くにいるだろう。
◇◇
私の世界に激震が走る。
未だかつて無かった、想定外の事態だ。
これほどまでに取り乱したのは神の子の乱心以来だろう。取り乱したというほど動いてはいないが。
放心した、という方が近いだろうか。
私の感情は数万年の経過によって極限まで薄れてしまったから、これほど心を揺さぶられる事に経験が無い。
その緊急事態とは、聖女が殺されたことだ。
ただ死んだのではない。とある人間の手によって殺害されたのだ。
聖女とは神の代弁者である。
神の末子であり、私の象徴。害される事など想定されておらず、そもそも害するような思考を持たせないように世界を調整しているほどだ。
だからこそ魔力信仰を許可しているし、的はずれな経典を放置してまで神性を高めている。
聖女を害する事は神を敵に回す事と同義だ。聖女殺害を成した組織は世界中から敵視され、神罰すらも与えられる程だろう。
その聖女が、殺された。
これは重大な過失だ。
何が起きた?私は何を失敗した?
聖女を殺害した人物は、イザベラ・ルシアン・アストリア。
どこかの国の姫だとすぐに分かった。何故ならこの女は私が用意した最高の素体の魔王を単独撃破せしめた張本人だ。
三千年程前、我らが父サタエルの真の力を宿した男の死を前した私は、その死を無駄にしない為に世界へと捧げた。
つまり、魔王の素体にしたのだ。
魔王化する場合は私の魔術により記憶は失われ、完全に私の管理下に置かれることになる。
その力は魔王の中ですら異端と言えるほど強大で底の知れない凶暴な力へと変貌した。
膨大な魔力を用いて作られたその魔王は森の奥へ移動させ、より大きな力を蓄えさせた。
これほどの力だ。さぞ人類は団結し、切磋琢磨し、生きる力を身につけるだろうと期待した大きな妙手だった。
しかし、その魔王は引きこもったまま特に何もせず、力を眷属である魔人に振るうのみで人類の敵にはならなかった。
性懲りも無く魔人を狩り続ける新たな魔王に嫌気が差した私はペナルティを施す事にした。
神呪である。
私の怒りを買った魔王は、私の呪いを授けた。
本気の呪詛術式を受けた魔王は徐々に力が衰え、その余波によって人類を疫病へ誘う。
神呪のもう一つの狙いはこれだ。
魔王による人類の発展が願わぬのならば、疫病によって人類の進化を待てば良い。
進化できぬなら文明のリセットという結果が待っているが、それはそれで私の手間が省けるというものだ。
私は歓喜した。
上手いこと疫病が流行り出したのだ。
初めての試みだったが、こちらの方が手間が少なく魔王の素体を用意する必要も無い。
ここまで苦しんだ魔王も反省の色を見せて人類を攻撃するだろう。
そんな甘い考えを吹き飛ばしたのが、イザベラ・ルシアン・アストリアだった。
彼女は最高の素体である魔王を殺し、聖女すら殺害した。
魔王を殺した事はまだいい。弱っていただろうし、人類の中にも超然とした力を持つ存在はいる。
まだ理解できる。
だが、何故聖女は死んだのだ。
それは有り得ないことだ。
非合理だ。
非常識だ。
……不愉快だ。
イザベラという個体に不快な思いをしている訳じゃない。聖女は殺されないと思い込んでいた私自身を不愉快に思ったのだ。
何故殺されるような状況に陥ったのか、何故それを想定していなかったのか。
………………まぁ、いい。
聖女が死んだ事そのものは人類にとって何の痛手でもない。
今代の聖女は素質があったが、それもまぁいい。
私は興味がある。
イザベラ・ルシアン・アストリアという個体そのものに感心がある。
一体何者だ。
最強の魔王を殺し、私を信仰する国へ侵略し、聖女を殺す程の殺意を抱くまでに何が起こったのか。
理解できない。
得心がいかない。
納得ができない。
私は混乱を承知で世界に降り立ち、直接対峙してみる事にした。
あえて力を放出していれば、イザベラという女は気づくだろうか。
それとも危険を察知して逃げてしまうだろうか。
あぁ、これほどまで興味を持つ個体は、魔王の素体の男以来か。
少し期待してしまうな。
薄くなった感情が喚び起こされる感覚がある。
これがどういう気持ちなのかを言語化する事はできないが、私は期待しているのだろう。
この世界を変える人間が現れることを。
私は世界に一歩だけ、足を踏み入れた。
二歩、三歩。
降り立った。
「み つ け た」




