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夏が終わる海で、君の名前をもう一度呼んだ  作者: ちょこまろ


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4/5

第4話 サザン通りの夕暮れで

好きだった人に、十年ぶりに再会した。


それだけで、昔の恋をやり直せるわけではありません。


仕事があり、家族があり、それぞれが積み重ねてきた人生がある。


もう若くないからこそ、簡単には踏み出せない一歩があります。


夏の終わりのサザン通り。


里帆と恭介は、あの頃には聞けなかったことを、今度こそ言葉にしようとします。

 八月最後の土曜日、カフェ・ミナトは朝から忙しかった。


 夏休みの終わりを惜しむように、海へ向かう人たちが次々に店へ入ってくる。

 冷たいレモンスカッシュ。

 アイスコーヒー。

 しらすのパスタ。

 テイクアウトのサンドイッチ。


 里帆は朝からほとんど休む間もなく動き続けていた。


「里帆ちゃん、三番テーブルお願い」


「はい」


「レモンスカッシュ二つ追加」


「はい」


「テイクアウト、できたよ」


「ありがとうございます」


 忙しいと、余計なことを考えずに済む。


 恭介と海を歩いた日から、里帆の心はずっと落ち着かなかった。


 今の里帆を、ちゃんと知りたい。


 恭介の言葉は、何度も胸の中で響いた。


 嬉しい。

 でも、怖い。


 十年は長い。


 恭介には恭介の十年がある。

 里帆には里帆の十年がある。


 昔好きだったから。

 今も胸が鳴るから。

 それだけで飛び込むには、二人とも大人になりすぎていた。


 午後四時を過ぎ、ようやく店内が落ち着いた頃、扉のベルが鳴った。


 里帆は顔を上げた。


 恭介だった。


 今日は少し汗をかいている。

 手には、小さな紙袋を持っていた。


「いらっしゃい」


「忙しそうだな」


「夏の終わりだからね。みんな最後に海を見たくなるんじゃない?」


「里帆は?」


「私は毎日見てるから」


「毎日見てても、見たくなるだろ」


 里帆は少し笑った。


「なる」


 恭介は窓際の席ではなく、カウンターに座った。


「今日は?」


「アイスコーヒー」


「レモンスカッシュじゃないんだ」


「あれは、里帆にすすめられた時だけにする」


「何それ」


「特別感」


 また、そういうことを言う。


 里帆は苦笑しながら、アイスコーヒーを用意した。


 グラスをカウンターに置くと、恭介は紙袋を差し出した。


「これ」


「何?」


「福岡の土産」


「今さら?」


「実家の荷物整理してたら出てきた。賞味期限は大丈夫」


 里帆は紙袋の中をのぞいた。

 小さな焼き菓子だった。


「ありがとう」


「里帆、甘いもの好きだったよな」


「好きだけど、覚えてたの?」


「覚えてるよ」


 恭介は当然のように言った。


 そういう何気ない記憶が、里帆の心を揺らす。


 好きだと言われるより、もしかしたら効いてしまう。

 十年前の自分が、ちゃんと恭介の中に残っていたことがわかるから。


「今日、仕事終わったあと少し歩ける?」


 恭介が聞いた。


「また海?」


「今日は、通りを歩きたい」


「通り?」


「サザン通り。ちゃんと歩いたの、戻ってきてからまだ少しだけだから」


「いいよ。店、六時に閉めるから」


「待ってる」


 その言葉に、里帆はまた胸が鳴った。


 待ってる。


 十年前、里帆がずっと心の中でしていたこと。

 けれど今度は、恭介が口にした。


 閉店後、里帆は店の片付けを終え、エプロンを外した。


 美智子が奥から顔を出した。


「行ってらっしゃい」


「まだ何も言ってません」


「顔に書いてある」


「店長」


「いいじゃない。夏の終わりに昔好きだった人と歩くなんて、若い頃でもなかなかできないわよ」


「昔好きだった人って決めつけないでください」


「あら、今も好き?」


 里帆は返事に詰まった。


 美智子は、勝ち誇ったように笑った。


「行ってきます」


「はい、行ってらっしゃい。ちゃんと幸せになりなさい」


 その言葉が、少し胸に残った。


 ちゃんと幸せになる。


 簡単なようで、案外難しい。


 里帆は店を出た。


 恭介は、店の前の道路脇に立っていた。

 夕暮れの光が、彼の横顔を淡く染めている。


「お疲れ」


「待った?」


「少し」


「ごめん」


「待つの、嫌いじゃないよ」


 里帆は、思わず恭介を見た。


「どうした?」


「ううん。なんでもない」


 二人はサザン通りへ向かって歩き出した。


 夕暮れの通りには、昼間とは違う空気があった。

 観光客の姿は少し減り、地元の人たちの生活が戻ってくる。

 買い物帰りの親子。

 自転車で走る高校生。

 犬の散歩をする男性。

 店先の灯りが少しずつともり始める。


「十年前の最後の日、覚えてる?」


 恭介が言った。


「福岡に行く前?」


「うん」


「覚えてるよ。駅で見送った」


「その前」


 里帆は少し考えた。


「ライブ?」


「そう」


 恭介は懐かしそうに笑った。


「小さいライブハウスで、最後にやった日」


「覚えてる。恭介、最後の曲の前に弦切った」


「最悪だった」


「でも、みんな笑ってた」


「里帆も笑ってた」


「だって、恭介がすごく焦ってたから」


「焦ったよ。格好つけたかったのに」


「誰に?」


 聞いた瞬間、里帆は後悔した。


 恭介は足を止めなかった。

 けれど、少しだけ声を低くした。


「里帆に」


 夕暮れの通りが、一瞬静かになった気がした。


「俺、あの日、言うつもりだった」


「何を?」


「福岡に行く前に、ちゃんと」


 恭介はそこで言葉を止めた。


 里帆も、止まった。


 店先から、どこか懐かしいリズムの音楽が漏れている。

 歌詞は聞き取れない。

 けれど、夏と海と、少しの後悔が混じったような音だった。


「ちゃんと、何?」


 里帆は聞いた。


 もう逃げない。

 そう決めたのだから。


 恭介は、里帆を見た。


「友達のふりをしたくなかった」


 里帆の胸が、大きく鳴った。


「でも、した」


「うん」


「私も、した」


 恭介の表情が揺れた。


「私も、あの日言うつもりだった」


「本当に?」


「うん。福岡に行っても、時々連絡してほしいって。帰ってきたら、また会いたいって。できれば、私のことを忘れないでって」


「忘れるわけないだろ」


「十年前に聞きたかった」


「ごめん」


「だから、謝らないでって」


 二人はまた歩き出した。


 通りの先に、海へ続く空が見える。

 夕日が雲の縁を赤く染めていた。


「福岡で、誰かと結婚しようと思ったことある?」


 里帆は聞いた。


 自分でも、ずいぶん踏み込んだと思った。


 恭介は少し黙った。


「ある」


 胸が痛んだ。


「そっか」


「でも、できなかった」


「どうして?」


「相手が悪かったわけじゃない。俺がちゃんと向き合えなかった」


 恭介は夕暮れの道を見つめた。


「その人と一緒にいても、ふと茅ヶ崎のことを思い出した。夏の終わりとか、海の匂いとか、駅のロータリーとか」


「それって、ずるいよ」


「うん。ずるかった」


 恭介は否定しなかった。


「だから別れた。相手にも失礼だった」


 里帆は小さく息を吐いた。


「私は、恭介を忘れるために恋をしたことがある」


 今度は恭介が黙った。


「でも、だめだった。その人が悪いんじゃない。私が、ちゃんと今を見てなかった」


「里帆」


「十年前の人を忘れられないなんて、自分でも嫌だったよ。重いし、情けないし、いつまで昔のこと言ってるんだろうって」


「俺も同じだ」


「同じ?」


「忘れたふりが上手くなっただけだった」


 その言葉に、里帆は胸の奥をつかまれたような気がした。


 忘れたふり。


 それなら、自分もずっとしてきた。


 毎日働いて。

 笑って。

 普通に暮らして。

 もう大丈夫な顔をして。


 でも、八月の終わりだけは、どうしても思い出した。


 里帆は足を止めた。


 通りの先、空がひらけている。

 海へ向かう道が、夕暮れの色に染まっていた。


「恭介」


「うん」


「今度は、どうしたいの?」


 恭介は里帆を見た。


 逃げない目だった。


「里帆と、ちゃんと始めたい」


 心臓が、静かに大きく鳴った。


「昔の続きじゃなくて?」


「続きでもある。でも、それだけじゃない」


 恭介は言った。


「十年前に言えなかったことを、今さらなぞるだけじゃなくて、今の里帆と、今の俺で始めたい」


 里帆は目を伏せた。


 嬉しい。

 でも、怖い。


 今度始めたら、また失うかもしれない。

 恭介が福岡へ戻るかもしれない。

 仕事が変わるかもしれない。

 親のこともある。

 生活は、若い頃よりずっと現実的だ。


「怖いよ」


 里帆は正直に言った。


「うん」


「十年前は、何も始まらなかったから、失ったって言っても思い出だけで済んだ。でも今度は、本当に始めたら、本当に傷つくかもしれない」


「うん」


「恭介がまた遠くへ行ったら、私はたぶん平気な顔をする。でも、今度は本当に苦しいと思う」


 恭介は、ゆっくり里帆に近づいた。


 けれど、やはり触れてはこなかった。


「遠くへ行かない、なんて簡単には言えない」


 その言葉は、甘くなかった。


 だからこそ、里帆は顔を上げた。


「会社のことも、父さんのことも、まだ全部は決まってない。福岡の案件も残ってる。俺は、明日からずっと茅ヶ崎にいるって約束はできない」


「うん」


「でも、黙っていなくなることはしない。勝手に里帆の前から消えたりしない。忙しさを理由に、連絡しないことを正当化したりしない」


 恭介の声が、少し震えた。


「今度は、ちゃんと話す。ちゃんと選ぶ。里帆と向き合う」


 里帆の目の奥が熱くなった。


 欲しかったのは、完璧な約束ではなかったのかもしれない。


 ずっとそばにいる。

 二度と離れない。

 そんな言葉は、聞けたら嬉しい。


 でも、大人になった里帆が本当に欲しいのは、夢みたいな保証ではなかった。


 逃げないこと。

 黙って消えないこと。

 ちゃんと話すこと。


 それだけで、人はもう一度誰かを信じられるのかもしれない。


「私も」


 里帆は言った。


「今度は、平気なふりをしない」


 恭介の表情が揺れた。


「本当は寂しいのに笑ったり、聞きたいことを飲み込んだり、勝手に諦めたりしない。恭介がわからない時は、ちゃんと聞く」


「うん」


「だから、恭介も聞いて。私が何を考えてるか、勝手に決めないで」


「わかった」


 夕暮れの通りで、二人は向き合った。


 十年前、あと一歩で変わらなかった関係。

 その一歩を、今なら踏み出せるだろうか。


 里帆は、そっと息を吸った。


「恭介」


「うん」


「私、今の恭介のことを知りたい」


 それは、告白のようで、告白ではなかった。

 けれど、始まりの言葉だった。


 恭介は、ゆっくり笑った。


「俺も、今の里帆を知りたい」


 風が吹いた。


 里帆の髪が頬にかかる。

 恭介が手を伸ばしかけて、少し止まり、それからそっと指先で払った。


 ほんの一瞬の触れ方だった。


 でも里帆は、逃げなかった。


「今度は、友達のふりをしたくない」


 恭介が言った。


 里帆は、まっすぐ恭介を見た。


「私も、平気なふりをしたくない」


 夕暮れのサザン通りに、店先の灯りがともっていく。

 夏の終わりの町は、明るくて、少し切なくて、どこか懐かしい。


 里帆は思った。


 きっと、恋は若い頃だけのものではない。


 大人になってからの恋は、勢いだけでは進めない。

 生活も、過去も、後悔も、抱えたまま歩くことになる。


 それでも、隣を歩きたいと思う人がいる。


 そのことが、こんなにも胸を熱くする。


「海まで行く?」


 恭介が聞いた。


「うん」


 里帆はうなずいた。


 二人は夕暮れの道を、海へ向かって歩き出した。

「遠くへ行かない」と約束することはできなくても、「黙っていなくならない」と約束することはできる。


恭介が差し出したのは、夢のような言葉ではなく、これからの人生に向き合おうとする決意でした。


そして里帆も、もう平気なふりをしないと決めます。


十年前には踏み出せなかった一歩。


今の二人なら、その先へ進めるのでしょうか。


次回、いよいよ最終章。


夏が終わる海で、二人の恋が一つの答えを迎えます。

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