第3話 ギターケースの中に残っていたもの
十年前、渡されなかったものがある。
言葉にできなかった気持ちも、届けられなかった約束も、時間が経てば消えてしまうのでしょうか。
それとも、誰にも知られない場所に残り続けるのでしょうか。
懐かしいサザン通りを歩く里帆と恭介。
二人が向かう先には、あの夏から止まったままの記憶が待っています。
水曜日の午後、茅ヶ崎の空は少しだけ曇っていた。
真夏の青ではない。
白っぽい雲が薄く広がり、海の方から湿った風が吹いている。
里帆は、白いシャツにベージュのロングスカートを合わせた。
鏡の前で髪を結び直し、すぐにほどいた。
結局、いつも通り肩に下ろす。
何をしているんだろう。
たかが、昔の友達と海まで歩くだけだ。
そう思うのに、落ち着かない。
待ち合わせは、サザン通り商店街の入口。
地元の人にとっては日常の道だけれど、観光客には少し特別に見えるらしい。
店の看板や、通りの名前を写真に撮る人もいる。
里帆が着いた時、恭介はすでに立っていた。
今日はラフな格好だった。
紺色のTシャツに、薄い色のジーンズ。
手にはコンビニのアイスコーヒー。
「早いね」
里帆が声をかけると、恭介は振り向いた。
「落ち着かなくて」
「それ、私が言うならわかるけど」
「俺だって落ち着かないよ」
恭介は少し笑った。
その笑い方が昔よりも柔らかくて、里帆は困った。
「行こうか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
サザン通りには、昔からある店と新しい店が混ざっている。
古い自転車屋。
小さなパン屋。
サーフショップ。
美容室。
昼下がりの商店街は、観光地というより生活の場所だった。
「ここ、昔よりきれいになったよな」
「そうだね。でも、変わらない店もあるよ」
「あのパン屋、まだあるんだ」
「ある。ここのカレーパン、恭介好きだったよね」
「覚えてるの?」
「覚えてるよ。ライブ前によく食べてた」
「胃もたれするのに?」
「若かったから」
二人で笑った。
こうして歩くと、記憶が勝手に戻ってくる。
恭介がまだ二十六歳だった頃。
里帆がまだ、自分の気持ちに名前をつけられなかった頃。
この道を何度も歩いた。
友達と一緒に。
時々、二人きりで。
夏の夜には、遠くから花火の音が聞こえた。
冬には、海風が冷たくて、恭介が自分のマフラーを里帆に巻いてくれたこともあった。
あの時も、里帆は聞けなかった。
どうして、そんなことをしてくれるの。
私は、あなたにとって何なの。
聞けなかった言葉ばかりが、この町には残っている。
「親父さん、どう?」
里帆は聞いた。
「少し落ち着いた。退院は来月かな」
「よかった」
「母さんが思ったより疲れててさ。俺、何も知らなかったんだなって思った」
「離れてると、わからないことあるよね」
「里帆は、ずっとこっち?」
「うん」
「出たいと思ったことは?」
里帆は少し考えた。
「あるよ」
正直に答えた。
「東京で働いてみたいとか、どこか遠くで暮らしてみたいとか。でも、結局出なかった」
「どうして?」
「母が一人になった時期があって。あと、店の仕事も好きだったし。いろいろ理由はあるけど」
里帆は笑った。
「本当は、少し怖かったのかも」
「何が?」
「この町を出たら、自分が空っぽだってわかる気がして」
恭介は何も言わなかった。
「茅ヶ崎にいれば、私は地元の人でいられる。海沿いのカフェで働いてる人でいられる。でも外に出たら、何者でもない自分になる気がして」
「里帆は、空っぽじゃないよ」
恭介が言った。
あまりにもまっすぐで、里帆は笑ってごまかそうとした。
「そういうこと、すぐ言う」
「本当に思ってる」
「恭介のそういうところ、昔から困る」
「困らせてた?」
「うん。すごく」
恭介は少しだけ真面目な顔になった。
「ごめん」
「謝るところじゃない」
里帆は海へ向かう道を見た。
少しずつ、風の匂いが濃くなる。
車の音の向こうに、波の気配が混ざる。
この町では、海が見えなくても、海が近いことがわかる。
「海に行く前に、実家に寄ってもいい?」
恭介が言った。
「え?」
「見せたいものがある」
「私に?」
「うん」
「何?」
「たぶん、見た方が早い」
恭介の実家は、海へ向かう道から少し入った住宅街にあった。
古い二階建ての家。
門の横には、手入れされた鉢植えが並んでいる。
玄関前のタイルは、昔と同じだった。
里帆は足を止めた。
「懐かしい」
「来たことあったよな」
「何回かね。みんなで集まった時」
「母さん、今は病院。親父の様子見に行ってる」
「勝手に上がっていいの?」
「大丈夫。里帆のことは話してある」
「何て?」
「昔からの友達」
里帆は、その言葉に少しだけ胸が沈んだ。
昔からの友達。
間違っていない。
でも、間違っていないからこそ痛い。
恭介は玄関を開け、里帆を中へ招いた。
家の中には、少しだけ古い木の匂いがした。
廊下の奥から、仏壇の線香の残り香のようなものも漂っている。
壁には、恭介の家族写真が飾られていた。
若い頃の恭介。
今よりも少し細くて、少し尖った目をしている。
隣には、まだ元気そうな父親と、優しそうな母親。
「こっち」
恭介は二階へ上がった。
里帆は少し迷いながら後を追った。
恭介の部屋は、十年前のままではなかった。
棚の上には本が増え、机の上には古い書類が積まれている。
けれど、窓際に置かれた黒いギターケースだけは、昔の記憶そのものだった。
「まだあったんだ」
里帆は思わず言った。
「あった。俺も昨日、久しぶりに開けた」
恭介はギターケースのそばに膝をついた。
金具を外す音が、小さく部屋に響く。
ふたを開けると、中にはアコースティックギターが入っていた。
少し古びているが、大切にされていたことはわかる。
「触ってなかったんじゃないの?」
「福岡には持って行った。でも、ほとんど弾かなかった。戻ってくる時、実家に置いたままにしてた」
「そうなんだ」
「昨日、片付けてたら、これが出てきた」
恭介はケースのポケットから、折りたたまれた紙を取り出した。
少し黄ばんだノートの切れ端だった。
「何?」
「十年前の俺が、しまい込んだもの」
恭介はそれを里帆に差し出した。
里帆は受け取るのをためらった。
「見ていいの?」
「里帆宛てだから」
指先が震えた。
里帆は紙を開いた。
そこには、走り書きのような文字が並んでいた。
歌詞ではなかった。
完成した曲でもなかった。
短い言葉の断片と、コードのメモ。
そして、いちばん上に、こう書かれていた。
里帆へ。
それだけで、胸が詰まった。
歌詞のようで、手紙のようで、でもどちらにもなりきれていない言葉たち。
夏の夕方。
海までの道。
笑う横顔。
言えないまま遠くへ行くこと。
戻ってきたい場所。
具体的な曲名も、誰かの歌の引用もない。
ただ、十年前の恭介が、里帆を思って書いたのだとわかる言葉だった。
「これ……」
「福岡に行く前に、書いた」
恭介は静かに言った。
「渡そうと思ってた。でも、渡せなかった」
「どうして?」
「渡したら、言わなきゃいけなくなるだろ」
「何を?」
恭介は答えなかった。
でも、答えないことで、答えがわかってしまった。
里帆は紙を握りしめた。
「言えばよかったのに」
「うん」
「言ってくれたら、私……」
そこまで言って、里帆は止まった。
私、どうしただろう。
ついて行くとは言えなかったと思う。
福岡へ行く恭介に、待ってるとも言えなかったかもしれない。
二十四歳の自分は、今よりもっと臆病だった。
けれど、言われたかった。
迷っていると。
離れたくないと。
自分だけが苦しかったわけではないと。
それだけで、十年は少し違ったかもしれない。
「里帆は、俺に言いたいことあった?」
恭介が聞いた。
里帆は窓の外を見た。
遠くに、かすかに海の光が見える。
この部屋からも、海は完全には見えない。
けれど、そこにあることだけはわかる。
「行かないでって、言いたかった」
声にすると、思ったよりも苦しかった。
「でも、言えなかった。恭介の未来を邪魔したくなかったし、私がそんなこと言える立場じゃないと思った」
「立場なんて、いらなかったのに」
「そういうこと、十年後に言わないでよ」
里帆は笑おうとした。
でも、涙が出そうになって、笑えなかった。
恭介は立ち上がり、少しだけ近づいた。
けれど、触れてはこなかった。
その距離が、恭介らしかった。
「里帆」
「なに?」
「あの時、言えなかったことがある」
里帆は、紙を握ったまま顔を上げた。
恭介の目は、十年前よりも静かで、十年前よりも強かった。
「でも、それをここで言ったら、また昔の続きになる気がする」
「昔の続きじゃ、だめなの?」
「だめじゃない。でも、それだけじゃ足りない」
恭介は、少しだけ苦しそうに笑った。
「俺は、十年前の里帆だけを見てるわけじゃないから」
その言葉に、里帆の胸が大きく鳴った。
「今の里帆を、ちゃんと知りたい」
里帆は返事ができなかった。
言われたかった言葉が、十年遅れで届く。
けれど、それは思い出に向けられた言葉ではなかった。
今の自分に向けられている。
そのことが、怖くて、嬉しかった。
「海、行こう」
里帆は紙を丁寧に折りたたみ、恭介に返した。
「これは、恭介が持ってて」
「里帆宛てなのに?」
「うん。今度は、しまい込まないで」
恭介は少しだけ笑った。
「わかった」
二人は家を出て、海へ向かって歩いた。
空はまだ曇っていた。
けれど、雲の切れ間から光が差し始めている。
国道134号を渡ると、風の匂いが一気に変わった。
潮の匂いが濃くなり、遠くの波の音が耳に届く。
海岸に出ると、風が一気に強くなった。
波の音。
砂の匂い。
遠くを歩くカップル。
犬を走らせる人。
夕方前の海は、真夏の喧騒が少し抜けて、穏やかだった。
恭介は、靴に砂が入るのも気にせず歩いた。
「福岡でも、海は見たよ」
恭介が言った。
「うん」
「でも、ここの海を見ると、戻ってきたって思う」
「茅ヶ崎の海は、特別?」
「特別だよ」
恭介は、波打ち際を見つめたまま言った。
「昔の音が、戻ってくる」
「音?」
「誰かの歌じゃなくてさ。里帆と歩いてた頃の、夏の音」
里帆は、思わず恭介を見た。
風に髪が乱れる。
恭介が手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そのためらいが、昔よりも優しかった。
「恭介」
「うん」
「私、今の恭介のこと、まだよく知らない」
「うん」
「十年分、知らないことがある」
「あるな」
「だから、すぐには答えられない」
何に答えるのか、自分でもはっきり言わなかった。
でも、恭介には伝わったようだった。
「でも、もう逃げたくない」
里帆は言った。
「今度は、ちゃんと聞く。ちゃんと話す。勝手に諦めたりしない」
恭介の表情が、少しだけ崩れた。
「それで十分だよ」
波が寄せて、引いていく。
海辺のどこかで、誰かが笑っている。
遠くの店先から、夏の終わりに似合う陽気で切ない音楽がかすかに流れている。
歌詞は聞こえない。
ただ、その空気だけが、二人の間を通り抜けていく。
里帆は思った。
十年前に渡されなかった紙は、まだ完成していない。
それは、きっと恋も同じだ。
終わったのではない。
完成しないまま、しまい込まれていただけなのだ。
ギターケースに残されていた、十年前の想い。
あの頃、二人は互いの気持ちを知らないまま、それぞれの未来へ進んでしまいました。
けれど、今の二人が向き合うべきなのは、過去だけではありません。
十年という時間の中で変わったもの。
それでも変わらなかったもの。
次回、夏の終わりのサザン通りで、二人はもう一度、自分たちの未来について考え始めます。




