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夏が終わる海で、君の名前をもう一度呼んだ  作者: ちょこまろ


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第2話 海沿いのカフェと、言えなかった夏

「また来る」と言った人が、本当に来てくれる。


そんな当たり前のことが、十年前の約束を覚えている里帆には、少しだけ怖いことでした。


海沿いのカフェに現れた恭介。


懐かしい会話の中で、二人は少しずつ、離れていた時間を埋めようとします。


けれど、十年前の別れには、まだ語られていない想いがありました。

 カフェ・ミナトは、茅ヶ崎の海から歩いて五分ほどの場所にある。


 大通りに面しているわけではない。

 観光客が行列を作るような有名店でもない。

 白い壁と木の扉。

 入口の横には、小さな黒板が立っている。


 本日のランチ。

 しらすと大葉のパスタ。

 自家製レモンスカッシュ。

 アイスコーヒー。


 店内には、いつもゆるやかな時間が流れている。


 窓際の席からは、道路の向こうを自転車で走る人たちが見える。

 サーフボードを抱えた若者。

 犬の散歩をする老夫婦。

 日傘を差した女性。

 夏の間は、店の床に砂が上がることもある。


 里帆は、この店が好きだった。


 特別なものは何もない。

 でも、海の近くに暮らす人たちの日常が、ちゃんとある。


「里帆ちゃん、今日ちょっとぼんやりしてない?」


 カウンターの奥から、店長の美智子が声をかけてきた。


 五十代半ば。

 日に焼けた肌と、短く切った髪。

 この店を二十年近く続けている人だ。


「え、そうですか?」


「そうです。コーヒー豆を二回量り直してた」


「すみません」


「いいけどね。恋?」


 里帆は危うくメジャースプーンを落としそうになった。


「違います」


「その否定の早さは、だいたい当たり」


「本当に違います。ただ、昔の知り合いに会っただけです」


「男?」


「……男ですけど」


「ほら」


 美智子は楽しそうに笑った。


「昔の知り合いで、男で、里帆ちゃんがぼんやりする。ほぼ恋でしょう」


「違いますって。十年前の友達です」


「十年前の友達は、普通そんなに動揺しません」


 言い返せなかった。


 里帆はコーヒー豆をミルに入れ、スイッチを押した。

 豆が砕ける音が店内に響く。

 香ばしい匂いが広がる。


 恭介と再会してから、三日が経っていた。


 あの日以来、恭介から連絡はない。

 そもそも今の連絡先を知らない。

 昔の番号は、もう使われていないはずだ。


 店に行ってもいいか、と彼は言った。

 でも、本当に来るかどうかはわからない。


 十年前もそうだった。


 三年くらいで戻ると思う。


 その言葉を、里帆は勝手に大事にしすぎた。

 恭介に悪気はなかったのだろう。

 きっと本当に、その時は三年で戻るつもりだったのだ。


 でも、戻ってこなかった。


 福岡は遠かった。

 会おうと思えば、飛行機にも新幹線にも乗れた。

 けれど、恋人でもない相手に、そこまで踏み込む勇気はなかった。


 だから今回は、待たない。


 そう決めていた。


 決めていたのに。


 午後三時過ぎ。

 ランチの客が引き、店内が少し落ち着いた頃、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 いつもの調子で顔を上げた里帆は、そこで息を止めた。


 恭介だった。


 白いシャツに、薄いグレーのジャケット。

 昔よりもきちんとした大人の格好なのに、どこか海辺の町に馴染んでいる。


 恭介は店内を見回し、里帆を見つけると少し笑った。


「本当に来たんだ」


 里帆は思わずそう言ってしまった。


 恭介は苦笑した。


「来るって言っただろ」


「十年前にも、似たようなこと言った」


 口にした瞬間、しまったと思った。


 店内の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。


 恭介の笑みが、静かにほどける。


「……そうだな」


 里帆は、慌ててメニューを手に取った。


「ごめん。今の、嫌味じゃなくて」


「わかってる」


「席、好きなところどうぞ」


「じゃあ、窓際に」


 恭介は窓際の席に座った。


 里帆は水とメニューを持って行く。


「おすすめは?」


「今日はレモンスカッシュ。暑いから」


「じゃあ、それと、アイスコーヒー」


「両方?」


「長居する気だから」


 さらりと言われて、里帆は一瞬言葉に詰まった。


「仕事は?」


「今日は実家でリモート。午前中に終わらせた」


「福岡の仕事?」


「今は本社扱い。しばらくはこっちでできるように調整してる」


「そうなんだ」


「便利な時代になったよな。十年前なら、たぶん無理だった」


 恭介は窓の外を見ながら言った。


 その横顔に、里帆は昔になかった疲れを見た。


 二十六歳の恭介は、いつも少し眩しかった。

 ギターを抱えて、笑って、何でもできそうな顔をしていた。

 東京で働くことも、福岡へ行くことも、当然のように未来の中にあった。


 でも今の恭介は、静かだった。

 諦めたわけではない。

 けれど、何かを何度も飲み込んできた人の静けさだった。


「少し待ってて」


 里帆はカウンターへ戻り、レモンスカッシュとアイスコーヒーを用意した。


 グラスに氷を入れる。

 自家製のレモンシロップを注ぐ。

 炭酸水をゆっくり加えると、小さな泡が光った。


 この泡を見るたびに、里帆は夏の終わりを思う。

 はじけて、消えていく。

 でもその一瞬は、ちゃんと綺麗だ。


 トレーに乗せて、恭介の席へ運ぶ。


「お待たせしました」


「ありがとう」


 恭介はレモンスカッシュを一口飲んだ。


「うまい」


「店長のレシピ」


「里帆が作ったから、うまいのかと思った」


「そういうこと、昔から平気で言うよね」


「平気じゃないよ。けっこう勇気出してる」


 里帆は目をそらした。


 そういうところだ。


 恭介は冗談みたいに言う。

 でも、その奥に少しだけ本音を混ぜる。


 だから里帆は、いつも迷った。

 これは本気なのか。

 それとも、ただの優しさなのか。


「店、いいな」


 恭介が言った。


「でしょ」


「里帆に合ってる」


「またそれ」


「本当に思ってる」


 里帆は向かいの席には座らず、立ったまま窓の外を見た。


「福岡は、合ってた?」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。


 恭介は少し黙った。


 店内には、古いスピーカーから流れるインストゥルメンタルの音楽が小さく響いている。

 波の音ではない。

 けれど、波のリズムに似ていた。


「最初は、合ってると思ってた」


 恭介は言った。


「仕事は面白かったし、街も好きだった。食べ物もうまいし、人もあったかいし。自分が新しい場所でちゃんとやれてる気がした」


「うん」


「でも、だんだんわからなくなった。自分が何を作りたかったのか。誰に何を届けたかったのか」


 恭介はグラスの中の氷を見た。


「気づいたら、ギターも触らなくなってた」


 里帆の胸が、少しだけ締めつけられた。


 昔の恭介には、いつもギターがあった。

 海辺で弾くわけではない。

 駅前のスタジオや、小さなライブハウスや、友達の部屋。

 けれど恭介の近くには、いつも音楽があった。


「もう弾かないの?」


「ケースに入れたまま」


「もったいない」


「里帆に言われると、刺さるな」


「だって、好きだったでしょ」


「うん」


 恭介は短く答えた。


「好きだった」


 その言い方が、まるで音楽以外のことも含んでいるように聞こえて、里帆は胸の奥を押さえたくなった。


 美智子が奥から声をかけた。


「里帆ちゃん、休憩入っていいよ」


「え?」


「今、お客さん少ないから。三十分くらい」


 美智子はにやりと笑っていた。


 里帆は小さく睨んだが、美智子は知らん顔をした。


「……じゃあ、少しだけ」


 エプロンを外し、里帆は恭介の向かいに座った。


 十年前も、こんなふうに向かい合って座ったことがある。

 駅前のファミレス。

 ライブ後の居酒屋。

 海の近くのベンチ。


 でも、あの頃とは違う。


 目の前にいるのは、二十六歳のままの恭介ではない。

 十年分、遠くで働き、迷い、何かを飲み込んできた男だった。


 里帆自身も、二十四歳の女の子ではない。

 三十四歳の大人だ。


 なのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。


「結婚、した?」


 里帆は聞いた。


 聞かないつもりだった。

 でも、聞かなければ前に進めない気がした。


 恭介は、里帆を見た。


「してない」


「そう」


「里帆は?」


「してない」


「そうか」


 それだけの会話だった。

 けれど、十年分の何かが、その短い言葉の間に落ちた。


「彼女は?」


「今はいない」


「今は、ってことは、いたんだ」


「まあ、いたよ。里帆は?」


「いたよ。長くは続かなかったけど」


「そっか」


 恭介はアイスコーヒーを飲んだ。


 大人になると、過去の恋も普通に話せる。

 そう思っていた。


 でも、恭介の口から「いたよ」と聞いただけで、里帆の胸は少し痛んだ。


 勝手だと思う。

 自分だって、誰かと付き合ったことはある。

 それなのに、恭介だけは昔のまま、誰のものにもならずにいてほしかったのかもしれない。


「里帆」


 恭介が言った。


「なに?」


「十年前のこと、謝ろうと思ってた」


 里帆の指が止まった。


「何を?」


「三年で戻るって言ったこと」


 窓の外で、自転車が通り過ぎた。

 カゴに入ったビーチサンダルが揺れている。


「あれ、ずっと気になってた」


 恭介は静かに続けた。


「軽く言ったつもりじゃなかった。でも、結局戻らなかった。連絡もしなくなった」


「……忙しかったんでしょ」


「忙しさを言い訳にした」


 里帆は何も言えなかった。


「福岡で必死だった。成果を出したくて、置いていかれたくなくて、茅ヶ崎のことを考える余裕がなかった。でも、本当は違う」


 恭介は里帆を見た。


「里帆に会うのが怖かった」


「どうして?」


「会ったら、戻りたくなると思った」


 胸の奥で、何かが崩れた。


 戻りたくなる。


 その言葉は、十年前の里帆がずっと聞きたかった言葉だった。


 でも、今さらだ。


 今さら、そんなことを言われても。


「遅いよ」


 里帆は笑った。


 笑ったつもりだった。

 けれど、声は少し震えていた。


「十年は、ちょっと遅い」


「うん」


「私、ずっと待ってたわけじゃないよ」


「うん」


「ちゃんと生活してた。仕事もしてたし、恋もしたし、友達とも遊んだし」


「うん」


「でも……」


 言葉が詰まった。


 恭介は急かさなかった。


 里帆は窓の外を見た。

 夕方の光が、道路の端を淡く染めている。


「夏の終わりだけ、思い出してた」


 小さく言った。


「駅で見送った日のこと。恭介が三年で戻るって言ったこと。私が、行かないでって言えなかったこと」


 恭介の表情が苦しそうに揺れた。


「ごめん」


「謝らないで。私も言わなかったんだから」


 そうだ。

 恭介だけが悪いわけじゃない。


 里帆は、自分で言わなかった。

 傷つくのが怖くて。

 関係が壊れるのが怖くて。

 友達のままでいれば、失わずに済むと思った。


 でも結局、失った。


「恭介」


「うん」


「あの時、私に言えなかったこと、ある?」


 店内の音が、少し遠くなった気がした。


 恭介は目を伏せた。

 長い沈黙だった。


 言わないで。

 でも、言って。


 里帆は、そんな矛盾した気持ちで恭介を見つめた。


 恭介は、やがて静かに言った。


「ある」


「何?」


 恭介はすぐには答えなかった。


「ここでは、うまく言えない」


「……ずるい」


「うん。ずるいな」


「昔から、そういうところある」


「自覚はある」


 里帆は小さく息を吐いた。


 聞きたい。

 でも、聞くのが怖い。


 十年遅れで差し出される答えが、自分の望んだものとは限らない。


 恭介は、テーブルの上のグラスを見つめたまま言った。


「今度、海まで歩かない?」


「海?」


「里帆の休みの日に。ちゃんと話したい」


 里帆は少し迷った。


 行けば、また何かが動いてしまう気がした。

 でも、行かなければ、十年前と同じだ。


 言えないまま。

 聞けないまま。

 また夏だけが終わる。


「水曜なら休み」


「じゃあ、水曜」


「逃げないでよ」


 言ってから、里帆は自分で驚いた。


 こんな言い方をするつもりはなかった。


 けれど、恭介は逃げなかった。

 まっすぐ里帆を見て、うなずいた。


「逃げない」


 その一言が、胸に残った。


 外から、海へ向かう風が入ってきた。

 扉の隙間から、潮の匂いがした。


 十年前に言えなかった言葉が、まだ二人の間にある。


 それが何なのか、里帆はまだ知らない。


 けれど、今度こそ聞かなければいけない。


 そう思った。

「遅いよ」


その短い言葉には、十年分の寂しさと、今さら責めたくない気持ちが込められていたように思います。


互いに大人になり、それぞれの人生を歩んできた二人。


それでも、心の奥にしまい込んだ言葉だけは、昔のままでした。


次回、恭介が長い間しまっていたものが、二人の時間をもう一度動かし始めます。

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