↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏が終わる海で、君の名前をもう一度呼んだ  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第1話 潮風の駅で、君と再会した

十年前、好きだと言えないまま見送った人。


もう会うことはないと思っていたその人が、夏の終わりの茅ヶ崎に帰ってきた。


懐かしい声も、笑い方も、あの頃のまま。


けれど、二人の間には十年という長い時間が流れています。


湘南の海を舞台に、言えなかった想いを抱えた男女が、もう一度恋に向き合う物語です。

 茅ヶ崎駅の改札を抜けた瞬間、森崎里帆は、潮の匂いが少し濃くなった気がした。


 八月の終わり。

 午後六時を過ぎても、空にはまだ夏の明るさが残っている。

 けれど、真夏のぎらぎらした光ではない。

 どこか色あせたような、少しだけ寂しい夕暮れだった。


 駅ビルの袋を右手に持ち、里帆は南口へ向かう階段を下りた。


 サンダルの音。

 日焼けした腕。

 濡れた髪をタオルで押さえる女の子。

 海帰りの人たちの笑い声。


 茅ヶ崎では、夏が終わりかけても、どこかで夏がまだ居残っている。


 里帆は小さく息を吐いた。


 三十四歳。

 地元の海沿いのカフェで働いている。

 独身。

 恋人はいない。


 不幸ではない。

 毎日、ちゃんと笑っている。

 常連のお客さんとも楽しく話す。

 仕事も好きだ。


 それでも、八月の終わりだけは苦手だった。


 夏が終わるたびに、昔の自分が、まだこの町のどこかに残っている気がする。


 南口のロータリーに出た時だった。


「里帆?」


 名前を呼ばれた。


 古い記憶の中から、そのまま取り出されたような声だった。


 里帆の足が止まった。


 振り向く前から、心臓が嫌なほど強く鳴り始める。


 まさか。


 そんなはずない。


 だって、十年だ。


 十年も経っている。


 けれど、里帆はゆっくり振り返った。


 ロータリーの端。

 タクシー乗り場の近くに、ひとりの男性が立っていた。


 白いシャツ。

 黒いパンツ。

 肩から下げた革のバッグ。

 少し伸びた前髪。

 昔よりも落ち着いた顔。


 でも、笑い方だけは変わっていなかった。


「……恭介?」


 青柳恭介は、少しだけ照れたように笑った。


「久しぶり」


 その一言で、十年が一気に崩れた。


 里帆は何を言えばいいのかわからなかった。


 久しぶり。

 元気だった?

 どうしてここに?

 福岡は?

 今、誰か大事な人はいるの?

 今さら何しに戻ってきたの?


 聞きたいことは山ほどある。

 けれど、口から出たのは、ひどく普通の言葉だった。


「……本当に、久しぶり」


 恭介は、里帆の手元の袋を見た。


「買い物帰り?」


「うん。駅ビルで。仕事帰りに少し」


「仕事、今もこっち?」


「うん。海沿いのカフェで働いてる」


「似合うな」


 さらりと言われて、里帆は困った。


 昔からそうだった。

 恭介は、何気ない一言で、人の心の柔らかいところに触れてくる。


「恭介は?」


「福岡から戻ってきた」


 里帆の胸が、小さく跳ねた。


「戻ってきた?」


「親父が入院して。母さん一人だと大変だから、しばらく実家にいる」


「そうだったんだ……。お父さん、大丈夫?」


「命に別状はないよ。ただ、退院してもしばらくは通院が必要で」


「そっか」


 よかった、と言おうとして、里帆は飲み込んだ。

 軽く言っていい話ではない気がした。


 恭介は、駅前の景色を見回した。


「変わったな、ここ」


「変わったよ。お店も増えたし、駅ビルも前より便利になったし」


「でも、風は変わらないな」


 その言葉に、里帆の胸が少しだけ痛んだ。


 風は変わらない。

 それは、本当にそうだった。


 この町は少しずつ変わった。

 知らない店が増え、昔あった喫茶店はなくなり、よく通ったCDショップも閉店した。


 でも、南口から海へ向かう風だけは変わらない。

 夏の終わりに、少し塩を含んで、少し肌にまとわりつく。


 十年前。

 この駅で、里帆は恭介を見送った。


 青柳恭介。

 茅ヶ崎で生まれ育ち、二十代の頃は地元の小さなライブハウスでギターを弾いていた人。


 東京の広告会社に勤めながら、最初の数年は茅ヶ崎の実家から通っていた。

 忙しくても、休みの日には地元の仲間と会い、ギターを弾いていた。


 里帆も、その頃はよく恭介と会っていた。


 恋人ではなかった。

 けれど、ただの友達とも言い切れなかった。


 ライブのあと、海沿いを歩いた。

 駅前のファミレスで夜中まで話した。

 夏祭りの帰り道、防砂林のそばで、あと一歩で何かが変わりそうになったこともある。


 でも、変わらなかった。


 二十六歳の夏、恭介は福岡支社への転勤が決まった。


「三年くらいで戻ると思う」


 そう言った恭介を、里帆は笑顔で見送った。


「頑張ってね」


 本当は、違う言葉を言いたかった。


 行かないで。

 せめて、私を置いていかないで。

 遠くへ行く前に、私のことをどう思っているのか教えて。


 けれど、言えなかった。


 恭介は仕事を頑張ろうとしていた。

 自分の場所を広げようとしていた。

 そんな彼を引き止める資格が、里帆にあるとは思えなかった。


 だから、笑った。


 恭介も笑った。


「戻ってきたら、また海行こう」


 その言葉を、里帆は十年も覚えていた。


 三年で戻るはずだった恭介は、戻ってこなかった。

 福岡での仕事が長引き、九州エリアの大きな案件を任され、戻るタイミングを失った。


 連絡は、少しずつ減った。

 最初は近況を送り合っていた。

 福岡の街の写真。

 茅ヶ崎の夕焼けの写真。

 元気? という短いメッセージ。


 けれど、仕事が忙しいとか、返信を後回しにしたとか、そんな小さな空白が積み重なって、二人の距離はいつの間にか埋められないものになった。


 里帆も、追いかけなかった。


 友達以上、恋人未満。


 便利な言葉だと思う。

 でも本当は、どちらにもなれなかっただけだ。


「里帆」


 恭介が、少し低い声で呼んだ。


 名前を呼ばれるだけで、昔に戻ってしまう。

 そんな自分が情けなくて、里帆は笑ってごまかした。


「なに?」


「今度、店に行ってもいい?」


「私の?」


「うん。海沿いのカフェって言ってたから」


「別に、普通の店だよ」


「普通がいいんだよ」


 恭介はそう言って、また笑った。


 ずるい。


 里帆はそう思った。


 十年ぶりに現れて。

 何もなかったみたいに名前を呼んで。

 昔と同じ笑い方をして。


 ずるい。


 けれど、来ないでとは言えなかった。


「……いいよ。カフェ・ミナトっていう店。サザン通りを抜けて、海の方に少し行ったところ」


「わかった」


「水曜は私、休みだけど」


「じゃあ、水曜以外に行く」


 あまりにも自然に言うから、里帆はまた困った。


 十年経っているのに。

 二人とも、もう若くないのに。

 会話の間合いだけが、昔のままだった。


 その時、ロータリーにバスが入ってきた。

 人の流れが一瞬揺れる。


 恭介が少しだけ身を引いて、里帆の前に人がぶつからないように立った。


 昔も、こうだった。


 混んだライブハウスで。

 花火大会の帰り道で。

 駅の階段で。


 恭介はいつも、何も言わずに里帆の少し前に立った。


「じゃあ、また」


 恭介が言った。


「うん。また」


 里帆はそれだけ返した。


 恭介は手を振り、駅前の人混みの中を歩いていった。


 その背中を見送りながら、里帆は十年前の自分と同じ場所に立っていることに気づいた。


 今度も、彼の背中を見ている。


 でも、今回は違う。


 恭介は福岡へ行くのではない。

 茅ヶ崎へ戻ってきたのだ。


 夕暮れの空の向こうから、誰かが鼻歌を歌っているような気がした。

 歌詞は聞こえない。

 曲名もわからない。

 ただ、海辺の町に似合う、明るくて少し切ない旋律が、風に混じって流れてくるようだった。


 十年ぶりに、夏の終わりが少しだけ怖くなった。


 そして同じくらい、少しだけ待ち遠しくなった。

十年という時間は、忘れるには長すぎて、忘れられない気持ちを隠すには十分な長さだったのかもしれません。


里帆と恭介。


二人は同じ茅ヶ崎駅で、もう一度出会いました。


けれど、昔と同じように笑い合えることが、必ずしも幸せとは限りません。


次回、海沿いの小さなカフェで、十年前には聞けなかった言葉が少しずつ明らかになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。