第5話(最終話) 夏が終わる海で、もう一度
十年前の夏。
里帆は、好きだった恭介を茅ヶ崎駅で見送りました。
本当は言いたかった言葉を、胸の奥に閉じ込めたまま。
そして今、三十四歳になった里帆は、もう一度、夏の終わりを迎えようとしています。
十年という時間は取り戻せません。
けれど、これからの時間なら、二人で選ぶことができるはず。
あの日、言えなかった言葉。
そして、今だからこそ伝えられる想い。
湘南の海を舞台に描く、大人の再会恋愛。
二人が迎える夏の終わりを、どうか最後まで見届けてください。
八月最後の日曜日。
茅ヶ崎の海は、朝からどこか浮き立っていた。
夏休み最後の日を惜しむ家族連れ。
まだ日焼けし足りない若者たち。
波打ち際で写真を撮る観光客。
海の家の片付けを少しずつ始める人たち。
笑い声がある。
音楽がある。
砂の上を歩く足音がある。
けれど、その全部の奥に、夏が終わる気配があった。
里帆は、カフェ・ミナトのテイクアウト用カップにアイスコーヒーを二つ入れた。
今日は休みだったが、美智子に頼んで少しだけ店を開けてもらったのだ。
「デート?」
美智子が言った。
「散歩です」
「大人はそれをデートって言うの」
「店長」
「はいはい。行ってらっしゃい」
美智子は、いつもより少し優しい顔で笑った。
「里帆ちゃん」
「はい?」
「怖がりすぎないでね」
里帆は返事に迷った。
美智子は続けた。
「若い頃の恋は、転んでもすぐ立てる。でも大人の恋は、転ぶ前にいろいろ考えちゃうのよ。仕事とか、親とか、将来とか、また傷つくかもとか」
「……はい」
「でもね、考えても傷つく時は傷つくし、考えなくても幸せになれる時はなれるの」
「店長らしいですね」
「雑でしょ」
「少し」
「でも、本当よ」
美智子は里帆の手に、紙袋を持たせた。
「これ、レモンケーキ。二人で食べなさい」
「ありがとうございます」
「ちゃんと、自分の欲しい幸せを選びなさい」
里帆は、紙袋を胸元に抱いた。
「はい」
店を出ると、恭介が待っていた。
今日は、白いTシャツに薄いブルーのシャツを羽織っている。
少し日に焼けた顔が、夏の終わりの光に馴染んでいた。
「おはよう」
「おはよう。これ、アイスコーヒー」
「ありがとう」
「あと、店長からレモンケーキ」
「完全に見守られてるな」
「そうだね」
二人は笑った。
海へ向かう道は、いつもより人が多かった。
サーフボードを抱えた人たちが通り過ぎる。
子どもが浮き輪を引きずって走っている。
どこかの家から、洗濯物の柔軟剤の匂いがした。
生活の匂いと、夏の匂い。
茅ヶ崎の道には、その二つが自然に混ざっている。
「会社から連絡が来た」
恭介が言った。
里帆は、足を止めそうになった。
「福岡?」
「うん」
心臓が静かに冷える。
やっぱり。
そう思った自分がいた。
恭介は続けた。
「来月、一度福岡に戻る。引き継ぎと、残ってる案件の整理がある」
「そっか」
里帆は、できるだけ普通に答えた。
平気なふりをしない。
そう決めたばかりなのに、身体は勝手に昔の癖を選ぼうとする。
笑って、頑張ってねと言えばいい。
十年前と同じように。
けれど、里帆は唇を噛んだ。
「どれくらい?」
ちゃんと聞いた。
恭介は、少しだけ安心したような顔をした。
「二週間くらい。その後は本社所属に戻る方向で話が進んでる。しばらくは茅ヶ崎の実家からリモートと出社を組み合わせることになると思う」
「本当に?」
「うん。ただ、出張はある。福岡にも行くだろうし、東京にも行く。全部が落ち着くまでは、ばたばたする」
「そう」
「でも、戻ってくる」
その言葉に、里帆は顔を上げた。
戻ってくる。
十年前にも聞いた言葉だった。
だから怖い。
けれど、今の恭介の声は、あの頃とは違っていた。
若さの勢いではない。
その場しのぎの優しさでもない。
選び直そうとしている人の声だった。
「今度は、ただ言うだけにしない」
恭介は言った。
「予定も伝える。連絡もする。寂しい時は寂しいって言ってほしい。俺も言う」
「恭介が?」
「言うよ」
「本当に?」
「たぶん、下手だけど」
里帆は少し笑った。
「下手でもいい」
国道134号を渡り、海岸に出ると、空が一気に広がった。
青い海。
白い波。
遠くの烏帽子岩。
砂浜にはたくさんの足跡が残っている。
夏の終わりの海は、明るいのに泣きたくなる。
里帆と恭介は、波打ち際から少し離れた場所に腰を下ろした。
紙袋からレモンケーキを取り出し、二人で分ける。
「うまい」
恭介が言った。
「店長の手作り」
「里帆も作るの?」
「たまにね」
「今度食べたい」
「またそうやって、簡単に今度って言う」
里帆が言うと、恭介は真面目な顔になった。
「言わない方がいい?」
里帆は首を横に振った。
「違う。言ってほしい」
「うん」
「でも、叶えるつもりで言って」
恭介は、少しだけ目を細めた。
「わかった」
波の音が、二人の間を埋めた。
しばらく、何も話さなかった。
沈黙が苦しくない。
それが、昔から不思議だった。
恭介といると、会話が途切れても気まずくなかった。
それはきっと、二人が似ていたからではない。
言葉にならないものを、同じ速度で待てる相手だったからだ。
「里帆」
恭介が言った。
「うん」
「これ、完成させた」
恭介はバッグから、折りたたんだ紙を取り出した。
ギターケースに入っていた、あの十年前の紙。
けれど、そこには新しい文字が足されていた。
「曲?」
「曲というほどじゃない。歌詞でもない。誰かに聴かせるものでもない」
「じゃあ、何?」
「手紙に近い」
恭介は少し照れたように笑った。
「読んでもいい?」
「うん」
里帆は紙を受け取った。
そこには、十年前の恭介の文字と、今の恭介の文字が混ざっていた。
夏の終わり。
海までの道。
言えなかった名前。
遠くへ行ったこと。
戻りたかった場所。
そして、今度は黙って消えないという言葉。
誰かの歌のようではなかった。
けれど、里帆には音楽のように感じられた。
明るいのに、少し切ない。
懐かしいのに、今を向いている。
海風の中で、不意に胸の奥へ流れ込んでくるような言葉だった。
里帆は、紙から顔を上げた。
「ずるい」
「え?」
「こんなの、泣くじゃない」
恭介は困ったように笑った。
「泣かせるつもりじゃなかった」
「昔からそう。恭介は、こっちが困ることを真顔で言う」
「ごめん」
「謝らないで」
里帆は紙を丁寧に折りたたみ、胸に当てた。
「嬉しい」
その言葉を言うだけで、涙がこぼれそうになった。
恭介は、里帆の隣で黙っていた。
昔なら、きっと冗談でごまかしたかもしれない。
今の恭介は、ただ待ってくれる。
里帆は深く息を吸った。
潮の匂い。
レモンケーキの甘い香り。
砂浜の熱。
遠くの笑い声。
どこかから流れてくる、夏の終わりに似合う音。
この町で、里帆はずっと暮らしてきた。
変わらないと思っていた。
自分だけが置いていかれた気がしたこともある。
でも、違ったのかもしれない。
里帆もちゃんと変わっていた。
傷ついて、働いて、笑って、恋をして、失敗して。
十年前には言えなかったことを、今なら言えるくらいには、大人になっていた。
「恭介」
「うん」
「私、十年前の続きをしたいわけじゃない」
恭介は静かにうなずいた。
「十年前に戻りたいわけでもない。あの頃の私たちが言えなかったことを、今さら全部取り戻せるとも思ってない」
「うん」
「でも、今の恭介となら、始めてみたい」
恭介の目が、少しだけ揺れた。
「本当に?」
「うん」
里帆は、逃げずに言った。
「好きだった。十年前、恭介が好きだった」
「うん」
「でも、今も好き」
波の音が大きく聞こえた。
言ってしまった。
十年かかった言葉。
ずっと胸の奥で、夏が来るたびに疼いていた言葉。
言ってしまえば、こんなにも短い。
恭介は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が少し怖くなって、里帆が顔を伏せかけた時、恭介が低い声で言った。
「俺も好きだ」
里帆の胸が熱くなった。
「十年前も、今も。里帆が好きだ」
恭介は、まっすぐ里帆を見ていた。
「でも、昔の里帆だけを見てるわけじゃない。今の里帆が好きだ。カフェで働いて、ちゃんと生活して、怖いのにちゃんと聞こうとしてくれる里帆が好きだ」
里帆は、涙をこらえきれなかった。
恭介が、そっとハンカチを差し出した。
「泣かせた」
「泣いたの」
「同じじゃない?」
「違う」
「そっか」
二人で少し笑った。
その笑い声が、波音に溶けた。
「手、つないでもいい?」
恭介が聞いた。
十年前なら、きっと何も聞かずに触れたかもしれない。
あるいは、触れられないまま終わったかもしれない。
でも今、恭介は聞いた。
里帆も、ちゃんと答えられる。
「うん」
恭介の手が、里帆の手に触れた。
大きくて、少し熱い手だった。
指先が重なり、ゆっくり握られる。
たったそれだけのことなのに、里帆は胸がいっぱいになった。
若い頃に想像していた恋とは違う。
もっと静かで、もっと現実的で、少し怖くて、でも深い。
海の向こうに、夕方の光が落ち始めていた。
夏が終わる。
海の家は片付けられ、観光客は少しずつ減り、通りのにぎわいも落ち着いていく。
秋になれば、海風は冷たくなる。
恭介は一度、福岡へ戻る。
里帆はまたカフェで働く。
でも、もう十年前とは違う。
待つだけではない。
黙って見送るだけでもない。
今度は、ちゃんと話せる。
寂しいと言える。
会いたいと言える。
戻ってきてと、言える。
「福岡に戻る日、駅まで見送りに行ってもいい?」
里帆が聞くと、恭介は少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「うん」
「つらくない?」
「つらいと思う」
里帆は正直に言った。
「でも、見送る。今度は、ちゃんと言うために」
「何を?」
「その時に言う」
恭介は、里帆の手を握り返した。
夕暮れの海で、二人はしばらく黙っていた。
遠くから、明るくて切ない音楽が風に乗って流れてくる。
歌詞は聞こえない。
けれど、胸の奥に懐かしい夏が広がっていく。
夏が終わる海で、里帆はもう一度、恭介の名前を呼んだ。
「恭介」
「なに?」
「好きだよ」
恭介は、一瞬だけ驚いて、それから嬉しそうに笑った。
「俺も、里帆が好きだ」
波が寄せて、引いていく。
夏は終わる。
けれど、終わりはいつも、何かの始まりでもある。
*
それからの日々、里帆は初めて、「待つ」という時間が怖いだけのものではないと知った。
恭介からは、毎日ではないけれど連絡が来た。
父の通院のこと。
福岡での引き継ぎのこと。
夜に食べたラーメンのこと。
実家の庭に置きっぱなしだった古い鉢を片付けたこと。
どれも特別な内容ではなかった。
けれど、その小さな連絡があるたびに、里帆は十年前とは違うのだと思えた。
あの頃は、待つことしかできなかった。
今は、聞ける。
寂しいと言える。
次に会う日を、自分から言葉にできる。
それだけで、同じ駅に立つことが、少しだけ違って見えた。
*
二週間後。
茅ヶ崎駅の改札前には、朝の光が差し込んでいた。
恭介は福岡へ戻るため、東海道線で新横浜へ向かい、そこから新幹線に乗ると言った。
里帆は、改札前で恭介と向き合っていた。
十年前も、この駅で見送った。
あの時、里帆は笑って言った。
頑張ってね。
それは優しい言葉だった。
間違った言葉ではなかった。
でも、本当に言いたかった言葉ではなかった。
「じゃあ、行ってくる」
恭介が言った。
里帆は、胸の奥がぎゅっと苦しくなるのを感じた。
怖い。
やっぱり怖い。
見送るのは、簡単ではない。
遠くへ行く背中を見るのは、十年前と同じように痛い。
けれど、今度は違う。
里帆は、ちゃんと恭介を見た。
「頑張ってね」
一度、そう言った。
恭介が少し寂しそうに笑った。
里帆は、その笑顔を見て、首を横に振った。
「違う」
「え?」
「それも本当だけど、それだけじゃない」
里帆は息を吸った。
ホームへ向かう人の流れ。
改札機の音。
電車の到着を知らせるアナウンス。
駅の向こうから入り込む、かすかな潮風。
十年前に言えなかった言葉が、今度は喉元で止まらなかった。
「戻ってきて」
恭介の目が、静かに見開かれた。
「ちゃんと、私のところに戻ってきて」
言えた。
十年かかった。
でも、言えた。
恭介は、泣きそうな顔で笑った。
「戻ってくる」
「うん」
「里帆のところに戻ってくる」
「待ってる」
今度の「待ってる」は、十年前とは違う。
何も言えずに、ただ時間が過ぎるのを待つのではない。
連絡を取り合い、寂しいと言い、会いたいと言い、ちゃんと自分で選びながら待つ。
恭介は改札を通る前に、里帆のそばへ一歩近づいた。
「行ってきます」
その言葉が、里帆の胸にまっすぐ届いた。
「行ってらっしゃい」
里帆は答えた。
恭介が改札を抜ける。
一度振り返る。
里帆は手を振った。
十年前、里帆は笑顔の下で泣いていた。
今日は、少し泣いて、ちゃんと笑っていた。
恭介の姿がホームへ消えていく。
けれど、不思議と、置いていかれた気はしなかった。
夏が終わる。
それでも、海風はまた吹く。
秋が来て、冬が来て、また春が来る。
普通の日々の中に、恋は続いていく。
里帆は改札前に立ったまま、胸に手を当てた。
遠くから、海辺の町に似合う明るくて切ない音が聞こえた気がした。
歌詞はない。
曲名もない。
けれど、それは確かに、里帆の中で鳴っていた。
十年前の別れではなく。
今日の始まりを。
夏が終わる海で、君の名前をもう一度呼んだ。
そして私は、ようやく自分の恋を始めた。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
『夏が終わる海で、君の名前をもう一度呼んだ』は、十年前に恋人になれなかった二人が、もう一度、自分の気持ちに向き合う物語でした。
この作品で描きたかったのは、失われた十年間を取り戻す恋ではありません。
過ぎてしまった時間は、どれほど願っても戻ってこない。
あの夏に言えなかった言葉も、選べなかった未来も、なかったことにはできません。
けれど、大人になった今だからこそ、言える言葉もあると思います。
寂しい。
会いたい。
そばにいてほしい。
そして、好きだという気持ち。
若い頃には言えなかった、たった一言。
その言葉を伝えるために、十年という時間が必要だった二人です。
物語の最後、里帆はもう一度、茅ヶ崎駅で恭介を見送ります。
十年前と同じ駅。
同じように遠ざかっていく、大切な人の背中。
けれど、今度は違いました。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
この二つの言葉を書けたことが、作者として何より嬉しく思います。
別れではなく、帰ってくる場所があるという約束。
その小さな違いこそ、二人が十年かけて辿り着いた幸せなのだと思います。
夏は終わります。
けれど、里帆と恭介の人生は、これからも続いていきます。
秋の海も、冬の潮風も、春の穏やかな日差しも。
いつか二人が当たり前のように並んで歩き、何気ない毎日を重ねていけますように。
そして、これまで何度も夏の終わりを寂しく感じていた里帆が、来年の夏は心から笑って過ごせますように。
二人の物語が、皆さまの心に少しでも残るものになっていれば幸いです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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