9.ツガイ
なんとなく、何もかもがうやむやなまま時間だけが過ぎていった。
森で起きたことについて、カインはそれ以上詳しく話そうとはしなかったし、私もどう尋ねればいいのか分からなかった。
それまで一度も持ったことのなかった魔力が突然現れたことも、カインが妖力という得体の知れない力を使えるようになったことも、遺跡であいつが私へ向かって「好きだ」と言ったことも、本当なら一つずつ問い詰めなければならないことばかりだった。
けれど、どれも答えを聞くのが少し怖かった。
何かを尋ねてしまえば、それまで当たり前だったものが本当に壊れてしまうような気がしたのだ。
カインもまた、何かを言いたそうに私を見ることはあっても、結局は口を閉ざしてしまう。そのせいで、昔なら気にも留めなかった沈黙が妙に重く感じられるようになり、私たちの間には今までなかった距離ができていた。
そうして数日が経ち、ようやく身体のだるさもほとんど消えた。
熱はもうない。医者からも、無理さえしなければ普段の生活へ戻って構わないと言われたので、私は朝から荷物をまとめていた。
もともとここへ泊まる予定で来たわけではない。着替えや日用品はグレゴリー家の使用人たちが何不自由なく用意してくれていたものの、だからといっていつまでも世話になっている理由もなかった。
それに、アカデミーの授業だってこれ以上休みたくない。
ベッド脇の机に置いていた小物を鞄へしまい、最後に上着を手に取ったところで、背後の扉が開いた。
「ミッケ?」
聞き慣れた声に振り返る。
部屋へ入ってきたカインは、肩へ上着を掛けようとしている私と、ベッドの上にまとめられた荷物を交互に見比べると、わずかに表情を強張らせた。
「どこに……行くんだ?」
「どこって、寮だよ」
なぜそんな顔をするのか分からず、私はそのまま上着へ腕を通した。
「もう熱も下がったし、いつまでもここにいるわけにもいかないでしょ。いくらグレゴリー家がアカデミーに近いからって、ずっと入り浸ってたらミモザにも悪いし」
ミモザの名前を口にした途端、カインの表情が僅かに曇った。
以前なら、あの子の名前を聞くだけで無意識に目元を和らげていたはずなのに、今はまるで触れられたくないことを聞かされたような顔をしている。
「……ミッケ」
「何?」
カインは少し迷うように口を閉ざしたあと、低い声で告げた。
「ミッケは、もうアカデミーの寮には帰れない」
あまりにも当然のことのように言われたので、私は一瞬、意味を理解できなかった。
「……え?」
手にしていた鞄を持ったまま、カインを見る。
「何言ってるの?」
「大事な話があるんだ。聞いてほしい」
いつになく真剣な声だった。
けれど、ここ数日ずっと感じていた居心地の悪さもあって、私は反射的に首を振った。
「いや……それなら一回家に帰る。お母さんだって心配してるだろうし、話ならあとで聞くから」
そう言って横を通り抜けようとしたところで、腕を掴まれた。
「頼む」
「カイン?」
「本当に大事な話なんだ。今、聞いてほしい」
腕を掴む力そのものは強くなかった。
無理やり引き戻そうとしているわけでもない。
それでも、今ここから行かせるわけにはいかないという意思だけは、握られた手からはっきり伝わってきた。
「だからって……離してよ」
「ミッケ」
「離してってば」
「ミッケ!」
いつもより強く名前を呼ばれ、私は思わず動きを止めた。
「……何よ」
振り返ると、カインはひどく思い詰めた顔をしていた。
怒っているわけではない。
むしろ、これから伝えなければならないことをどう言葉にすればいいのか分からず、ずっと迷い続けていたような表情だった。
やがてカインは私の腕から手を離すと、気持ちを落ち着かせるように一度大きく息を吐いた。
「ミッケは……ツガイって、聞いたことあるか?」
「ツガイ?」
あまりに唐突な言葉に、私は眉を寄せた。
「そりゃ、聞いたことくらいはあるけど」
「どこまで知ってる?」
「どこまでって……」
急にそんなことを聞かれても困る。
私はこれまで耳にした話を思い出しながら、知っている範囲で答えることにした。
「すごく偉い貴族には、たまに『運命の相手』みたいな人がいるんでしょ? 見つかったらその人と結婚することになってて、王国にとってもすごく大事だとか……そのくらい」
少なくとも、私たち普通の人間にとっては遠い世界の話だった。
ツガイが現れるのは、始祖種族の血を受け継ぐような高位貴族だと聞いている。だから噂話として耳にすることはあっても、まさか自分に関係するとは思わないし、わざわざ詳しく調べようとしたこともない。
「平民の私には関係ない話だと思ってたし」
「……知ってるのは、それだけか?」
「うん。あとは……イージス公爵家の人がツガイだとか、そんな噂を聞いたことがあるくらいかな」
そこまで答えると、カインは黙り込んだ。
いつもなら何かしらすぐ言葉を返してくるのに、今日はそうではない。その沈黙が妙に長く感じられ、こちらまで不安になってくる。
「それが何?」
「……ミッケ」
カインは私を真っ直ぐ見つめたあと、ゆっくり左手を持ち上げた。
「これに、見覚えないか?」
「これって……」
その手を見た瞬間、私は言葉を止めた。
黒い手袋。
昔から、カインが左手にだけつけ続けているものだった。
子どもの頃、暑くないのかと何度も聞いたことがある。遊んでいる最中に邪魔そうだったから外せばいいと言ったこともあったし、ふざけて取り上げようとして本気で怒られたことさえあった。
けれどカインは、どれだけ私がしつこく言っても、その手袋だけは決して外そうとしなかった。
森で遺跡の塀を登った、あの日までは。
カインはしばらく自分の左手を見つめていたが、やがて覚悟を決めるように右手で手袋の端を掴んだ。
ゆっくりと布が引き抜かれ、その下から素肌が露わになる。
「……それ……」
思わず息を呑んだ。
左手の甲には、見慣れない紋様が刻まれていた。
獣の顔を思わせる意匠を中心に、枝葉のような細かな模様が左右へ広がり、その上には星を思わせる印が浮かんでいる。墨や染料で描いたものには見えず、生まれたときから皮膚そのものへ刻まれていたかのように、肌へ自然に馴染んでいた。
森で手袋を外したときには、まさかそんなものが隠れているとは思いもしなかった。
「何……それ」
カインは露わになった左手を見下ろし、指をゆっくり握り込んだ。
「隠してて、ごめん」
「え?」
「俺……ツガイ主なんだ」
聞き慣れない言葉に、私は思わず瞬きをした。
「ツガイ……主?」
聞き返しても、カインの表情は少しも冗談めいていない。
「何、それ……」
どうやら私が知っている「ツガイ」という言葉だけでは足りないらしい。
カインは私の反応を見ると、やはりそこから説明しなければならないのかとでもいうように目を伏せ、しばらく考えてから静かに口を開いた。
「話せば長くなる」
それからベッド脇に置かれた椅子へ視線を向ける。
「座ってくれ。全部……話すから」
私はすぐには答えられなかった。
ただ、何年ものあいだ決して外そうとしなかった左手の手袋と、その下に隠されていた紋様を交互に見つめる。
カインとは八歳の頃から、嫌というほど一緒にいた。
馬鹿なこともしたし、喧嘩もした。家へ遊びに来ることだって珍しくなく、私は自分がこいつのことをかなりよく知っているつもりでいた。
それなのに今、目の前には、私が一度も知らなかったカインがいる。
何年も一緒にいたはずなのに、私はカインについて何も知らなかったのではないか。
そんな不安が、左手に刻まれた紋様を見つめるうちに、胸の奥へじわじわと広がっていった。




