8.いけなかったパーティー
目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
ぼんやりと霞む視界の向こうに、淡い色の天蓋と、彫刻の施された梁が見える。まだ頭がうまく働かず、ここがどこなのか分からないまましばらく天井を眺めていたが、やがて見覚えのある意匠に気づいた。
いや、知らない場所ではない。
毎年、長期の休みになるたびに何度も遊びに来て、そのまま何日も入り浸っていた場所だ。
ここは、グレゴリー公爵家。
そして私が寝かされているこの部屋も、昔から客室というより、ほとんど私専用の部屋のように使わせてもらっていた場所だった。
「……なんで、ここに……」
声を出した途端、喉がひどく乾いていることに気づいた。身体も鉛でも詰め込まれたように重く、少し頭を動かしただけで、全身へ妙な疲労感が広がっていく。
何があったのか思い出そうとすると、途切れ途切れだった記憶が少しずつ戻ってきた。
森の奥にあった古代遺跡。崩れた塀から落ちたこと。カインの左手が首の後ろへ触れた直後、彼の様子がおかしくなったこと。そして、それまで何も感じなかったはずの私まで、森に満ちた魔力を感じるようになった。
最後に浮かんできたのは、カインが私へ向けていた、あの眼差しだった。
そこまで思い出したところで、右手に何か温かなものが触れていることに気づいた。
視線を落とすと、ベッドの脇に置かれた椅子へ腰掛けたまま、カインが眠っている。
「……カイン?」
上体を少し前へ傾け、片腕を寝台の縁へ預けながら、私の手を握ったままだった。
いつからこうしていたのだろう。
銀灰色の髪は普段より少し乱れ、閉じられた目元にも疲れが滲んでいる。いつものカインなら、こんな無防備な姿を見られたと知ればすぐに不機嫌そうな顔をするだろうに、今は私が起きたことにも気づかず眠り続けていた。
握られている手を少し動かしてみる。
「カイン……カインってば、起きて」
「ん……」
もう一度名前を呼ぶと、カインの眉が僅かに動いた。
ゆっくりと瞼が開き、まだ眠気の残る目がこちらへ向けられる。けれど私の顔を認識した途端、その表情は一変した。
「……ミッケ?」
はっと身体を起こし、確かめるように私を見る。
「ミッケ。良かった……気がついたか」
声にも顔にも、隠しようのない安堵が滲んでいた。
そこまで心配させていたのかと少し面食らいながら、私は改めて部屋の中を見回した。
「わざわざ家まで運んだの? アカデミーで良かったじゃん」
「あそこからなら、俺ん家のほうが近かったんだよ。それに、すぐ医者も呼べるし」
「……それは、ありがとう」
森の出口で倒れたところまでは何となく覚えているものの、その後の記憶はまったくない。ということは、本当にここまでカインが運んでくれたのだろう。
私が礼を言うと、カインはようやく握っていた手を離した。
「医者呼んでくる。待っててくれ」
「うん」
立ち上がったカインは、ほとんど駆けるように部屋を出ていった。
扉が閉まると、それまで人の気配があった室内が急に静かになる。
「……どれくらい寝てたんだろ」
窓へ目を向けてみたものの、外の明るさだけでは時刻すらよく分からなかった。
それよりも今は、喉の渇きがひどい。
「水……飲みたい……」
近くに水差しがないか探そうとした、そのときだった。
右手の掌に、ひやりとした感触が生まれた。
「……え?」
何気なく自分の手を見る。
最初は何もないように見えた。けれど次の瞬間、掌の上へ透明な雫がふわりと浮かび上がる。
それは一滴、二滴と増えていき、やがて小さな水の塊となって宙に漂った。
「きゃぁ!?」
驚いて反射的に手を振ると、水の塊が弾け、寝具の上へぱしゃりと散った。
何が起きたのか理解できず、私は水滴の残る掌を呆然と見つめた。
「な、なに……今の……?」
直後、廊下から慌ただしい足音が響き、ばん、と勢いよく扉が開いた。
「どうした!?」
戻ってきたカインが、ほとんど飛び込むように部屋へ入ってくる。
「カ……カイン……」
「何があった?」
「水が……」
「水?」
私は自分でも何を言っているのか分からないまま、震える手を差し出した。
「手から……水が出た」
そんな馬鹿な話があるものかと、自分で言いながら思う。
けれどカインは笑わなかった。
すぐにベッドのそばへ来ると、私の手を取り、掌や指先を確かめるように見つめた。
「落ち着け」
「だって、水よ!? 私の手から出たのよ!」
「分かってる。だから落ち着けって」
カインは私の指先から視線を離さないまま、少し考え込むように口を閉じた。
やがて、低い声で告げる。
「これは……魔法だ」
「え?」
あまりにも予想外の言葉で、意味を理解するまで少し時間がかかった。
「魔法?」
「ああ」
「いやいやいや、そんなわけないでしょ」
私は反射的に首を振った。
「私、魔法なんて使えたことないよ? それどころか、そもそも魔力がないんだから」
それは今まで何度も確認されてきたことだ。
アカデミーへ入学してからだって、魔力測定を受けたのは一度や二度ではない。そのたびに結果は同じで、私は魔力を持たない人間として扱われてきた。
それなのに、今の水は確かに私の掌から現れた。
そう考えた瞬間、森で起きたもう一つの異変まで思い出す。それまで何ひとつ感じたことのなかった私が、あのとき初めて森に満ちた魔力を感じたのだ。
「……何なのよ、これ」
私は自分の手を見つめた。
森に長く居すぎたせいなのだろうか。それとも古代遺跡で、知らないうちに何かおかしなものへ触れてしまったのか。
いくら考えたところで、今の私に答えが出せるはずもなかった。
「とりあえず、医者にはメイドから伝えてもらった。すぐ来ると思う」
「……うん」
それ以上話す間もなく、しばらくしてグレゴリー家の主治医だという年配の男性が部屋へやって来た。
医者は私の熱を測り、脈を取り、瞳や喉の状態まで一通り丁寧に診察していく。その間、カインはほとんど口を挟まず、少し離れた場所に立ったまま、こちらの様子をじっと見守っていた。
「大きな問題はなさそうですね」
一通り診察を終えた医者が、ようやく穏やかな声でそう告げた。
「森の中を長時間歩いたことに加え、雨に濡れたことで身体へ相当な負担がかかったのでしょう。運び込まれた直後からかなり高い熱が続いていましたが、昨夜から順調に下がっています。今はほぼ平熱に戻っていますから、ひとまず心配はいりません」
「そうですか……」
深刻な病気ではないと分かり、私はほっと胸を撫で下ろした。
ところが医者は薬を用意しながら、何気ない口調で続けた。
「とはいえ、三日もほとんど眠り続けていましたから、体力はかなり落ちているでしょう。今日は無理に起き上がらず、食事と水分を取ってゆっくり休んでください」
「……え?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「先生、今なんて?」
「三日間ですよ。途中で何度か目を覚ましかけてはいましたが、ほとんど眠っておられました」
「み、三日!?」
思わずベッドの上で身体を起こす。
頭の中で日付を数えようとして、すぐに一つのことへ思い当たった。
「えぇ!? ミモザの誕生日パーティー、過ぎてるじゃん!」
あんなに楽しみにしていたのに。
プレゼントだって準備していたし、当然出席するつもりだった。何より、カインがあの日にプロポーズするものだと思っていたから、その結果を後から根掘り葉掘り聞いてやるつもりだったのである。
医者が薬を置き、今日一日は安静にするよう念を押して部屋を出ていくと、私はすぐにカインへ顔を向けた。
「カインは行ったの?」
カインはすぐには答えなかった。
ほんの僅かな沈黙のあと、ゆっくりと首を横に振る。
「行ってない」
「……どうして?」
思わず聞き返した。
ミモザの十六歳の誕生日だったのだ。
あれだけ何日も前から贈り物について悩み、そのために森まで宝石花を取りに行き、ついにはプロポーズするとまで決めていた。
それなのに、行かなかった。
「私のせい?」
「違う」
返事は、迷いなく返ってきた。
カインがこちらを見る。
その眼差しを受けた瞬間、胸の奥が落ち着かなくなった。
普段は鋭いはずの目元が、今は妙に柔らかい。無事に目を覚ましたことへ安心しているようにも、まだ身体を心配しているようにも見える。それだけならよかったのに、そこにはもっと深い、大切なものを見つめるような感情まで滲んでいた。
私は、その目を知っている。
何年ものあいだ、何度も見てきた眼差しだった。
けれど、これまでその視線が向けられていた相手は私ではない。
ミモザだった。
彼女が楽しそうに笑ったときも、いつもと少し髪型を変えたときも、寒そうに肩を縮めていたときも、カインはこんなふうに目元を和らげていた。
好きな女を見るときだけ浮かべる、あの柔らかな眼差し。
それを今、どうして私に向けているのだろう。
気づけば、私はシーツを強く握り締めていた。
あの日、森の中で初めてその目を向けられたときから、カインに見つめられるたび、どういうわけか胸の奥が妙に騒がしくなる。
嫌だった。
そんな目で見ないでほしいと思うのに、すぐに視線を逸らすこともできない。
結局私は、理由の分からない居心地の悪さを抱えたまま、しばらくカインの目を見返していた。




