7.その目でみないで。
雨は、森へ入ったときよりもずっと強くなっていた。
頭上を覆う枝葉が多少は雨を遮ってくれているものの、それも最初だけだった。葉に溜まった水が重さに耐えきれず、まとまった雫となって次々に落ちてくる。制服はすっかり濡れ、髪は頬や額へ張りつき、足元の土も歩くたびに泥へ変わっていった。
「最悪……」
濡れた前髪を掻き上げながら、私は力なく呟いた。
ただでさえ遺跡まで来るのに体力を使っている。そのうえ塀から落ち、訳の分からないことまで立て続けに起きた後で、この雨である。
森を出るまで一気に歩きたかったけれど、しばらく進んだところでとうとう足が重くなった。
「ミッケ、少し休むぞ」
「……うん」
珍しく反論する気力も湧かなかった。
ちょうど大きな岩が張り出し、その下だけ雨を凌げそうな場所があったので、私たちはそこへ逃げ込んだ。完全に濡れないわけではないものの、少なくとも直接雨を浴び続けるよりはましだった。
私は岩壁を背にして腰を下ろし、その隣へカインも座る。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
雨が木々や地面を叩く音だけが、辺りを満たしている。
いつもなら、こういう沈黙は気にならない。カインとは昔から一緒にいるのだから、何も話さず隣に座っている時間など珍しくなかった。
けれど今は、妙に落ち着かなかった。
先ほど遺跡で起きたことが、頭から離れてくれない。
突然抱きしめられたことも。
好きだと言われたことも。
首の後ろへ触れられたことも。
そして、それより少し前に見たものも。
「……さっきの、何?」
気づけば、私はそう尋ねていた。
カインがこちらを見る。
「さっきって?」
「遺跡で。私が落ちたあと」
そこまで言ってから、どう説明すればいいのか迷った。
「塀……壊してた」
「俺が?」
「うん。それに……耳」
「耳?」
「頭から生えてた」
今思い出しても、自分が見間違えたのではないかと思う。
けれど、確かに見た。
カインの頭部から、人間のものではない耳が現れていた。ほんの短い時間だったせいで細かな形までは覚えていないものの、あれがいつものカインの姿ではなかったことだけは間違いない。
私の話を聞いたカインは、しばらく何も言わなかった。
やがて、何か思い当たったように自分の左手を見下ろす。
「……妖力だ」
「ようりょく?」
初めて聞く言葉に、私は首を傾げた。
「なにそれ……」
「始祖の力を使うための力……だったと思う」
カインは自分でも確信がないらしく、考えながら言葉を選んでいた。
「俺たちみたいな高位貴族には、昔の異種族の血が残ってるだろ。グレゴリーなら獣人族。その血を強く出すために使う力が、妖力だ」
「魔力とは違うの?」
「ああ。別物だ」
カインはそう答えながら、自分の身体を確かめるように腕や指を動かした。
「本来なら、そんな簡単に使えるもんじゃねぇはずなんだけどな……」
「じゃあ、さっき使えたの?」
「たぶん」
「なんで?」
「……分からねぇ」
その答えだけは、妙に歯切れが悪かった。
カイン自身にも本当に分からないらしい。
しばらく考え込んでから、彼はふと思い出したように頭へ手をやった。
「耳か。もう生えてねぇ?」
「うん」
私は念のため横からも眺めてみたけれど、そこにあるのはいつもの銀灰色の髪だけだった。
「普通。いつものカイン」
「そうか……」
安心したのかどうかも分からない声で呟き、カインはまた黙り込んだ。
その横顔を見ていると、こちらまで落ち着かなくなる。
今日だけで、この男は何度「分からない」と言っただろう。
カインは昔から細かなことを深く考える性格ではないけれど、自分自身のことまで分からなくなるような人間ではなかった。
「なぁ、ミッケ……」
不意に呼ばれ、私は顔を上げた。
カインは何かを言いかけていた。
けれど私と目が合った瞬間、わずかに言葉を止める。
「いや……」
「なに?」
「……寒いか?」
聞きたかったこととは違う気がした。
それでも私は追及せず、自分の濡れた袖を見下ろした。
「……少しだけ」
雨に濡れた制服は肌へ張りつき、さっきから身体の芯まで冷えている。森の中を歩いている間は身体を動かしていたからまだよかったものの、こうして座ってしまうと一気に寒さを感じ始めていた。
するとカインは何も言わず立ち上がり、自分の上着を脱いだ。
「え、いいって」
「着とけ」
「でもカインも濡れてるじゃん」
「俺は平気だ」
拒むより早く、肩へ上着をかけられた。
まだカインの体温が残っているせいか、濡れた制服の上からでもじんわりと暖かさが伝わってくる。
「……ありがと」
仕方なく礼を言って、ふと顔を上げた。
カインが私を見ていた。
その瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
嫌だった。
その目で見られるのが、どうしようもなく嫌だった。
鋭いはずの目元が柔らかくなり、私の様子を気遣うようにじっと見つめている。
見覚えがある。
何年も前から、ずっと見てきた目だった。
けれど、その視線が向けられていた相手は私ではない。
ミモザだった。
ミモザの髪型が変わったとき。
ミモザが笑ったとき。
寒そうにしている彼女へ気づいたとき。
カインが好きな女を見るときだけ浮かべる、あの柔らかな眼差し。
それとまったく同じ目で、今は私を見ている。
胸の奥が落ち着かない。
だから私は、反射的に視線を逸らした。
「……早く帰ろう」
「もう少し休んだほうがいいんじゃねぇか?」
「いいの」
「でも――」
「大丈夫だから」
少し強めに言うと、カインはそれ以上何も言わなかった。
私が立ち上がれば、彼も黙って立ち上がる。
その後は、ほとんど会話をしなかった。
カインは私より少し前を歩き、足場の悪い場所があれば振り返って待った。倒木を越えるときには手を差し出してくるし、私が少しでも遅れれば歩調を緩める。
それが、いつものカイン以上に気になった。
余計なことを考えたくなくて、私はただ足元だけを見ながら歩いた。
雨はなかなか止まなかった。
森の中はますます暗くなり、ぬかるんだ地面へ足を取られるたびに体力が削られていく。
どのくらい歩いただろう。
やがて、木々の向こうが僅かに明るくなった。
「あ……」
森の出口だった。
やっと出られる。
そう思った途端、それまで張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「ミッケ?」
「だいじょ……」
答えようとしたのに、突然身体から力が抜けた。
視界が傾く。
「おい!」
地面へ倒れる前に、カインの腕が身体を支えた。
けれど、何が起きたのか自分でも分からない。
さっきまで寒かったはずなのに、今度は身体の奥が異様に熱い。
頬も額も燃えているようで、息を吸うだけでも熱がこもる。
「あれ……?」
力の入らない手で自分の額へ触れようとしたものの、その腕すら上手く上がらなかった。
「あつい……」
「ミッケ!」
カインが私の額へ手を当て、表情を変えた。
「すげぇ熱じゃねぇか……!」
「そう……?」
自分ではよく分からない。
ただ、さっきまで感じていた寒さが嘘のように身体が熱かった。
頭もぼんやりして、瞼が重い。
「歩けるか?」
「たぶん……」
そう答えて立とうとしたけれど、膝にまるで力が入らなかった。
身体がまた傾いた瞬間、カインが私の背中と膝裏へ腕を回した。
「え……?」
次の瞬間には、身体が地面から浮いている。
「ちょ、カイン……」
「いいから」
いわゆる、お姫様抱っこというやつだった。
普段なら恥ずかしくて暴れて降ろせと言っていただろうけれど、今は抵抗するだけの力も残っていない。
カインは私を抱え直し、森の出口へ向かって走り出した。
「ミッケ、待ってろ。すぐに医者にみせてやるからな。」
声が焦っている。
腕の中から顔を上げると、カインは前を見ながら必死に走っていた。
ときどき私の様子を確かめるように視線を落とす。
そのたびに、またあの目とぶつかった。
心配そうに。
大切なものを抱えているように。
何よりも失いたくないものを見るように。
胸の奥が、熱とは別の理由でざわついた。
嫌だ。
やめて。
その目で、私を見ないで。
私は逃げるように目を閉じ、カインの胸元へ顔を伏せた。
それでも、腕から伝わってくる体温も、乱れた呼吸も、私を落とすまいと抱く力も、何ひとつ消えてはくれなかった。




