6.悪友が死んだ日
「ちょっと、カイン!? どうしたの? どこか――」
突然抱きしめられた意味が分からず、私はカインの胸元へ押し込まれたまま顔を上げた。
腕に込められた力は思っていた以上に強く、少し身じろぎした程度ではびくともしない。先ほどまで地面に膝をつき、まともに立つことさえ難しそうにしていた人間とは思えないほどだった。
「……きだ……」
「え?」
頭上から掠れた声が落ちてきた。
荒い呼吸に紛れてほとんど聞き取れず、私は眉を寄せる。
「何? 聞こえない」
するとカインの腕が、さらにわずかに強くなった。
「好きだ……ミケリア」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
聞き間違いだと思った。
いや、聞き間違いであってほしかったというほうが正しいかもしれない。
私のことを普段からミッケと呼んでいるカインが、こんなときに限って妙に真剣な声で、しかも滅多に呼ばない本名を口にしたのだ。
けれど、よりによって続いた言葉が理解不能すぎた。
「……頭でも打った!?」
思わず声を上げると、カインは私を抱きしめたまま、ゆっくり首を振った。
「違う……俺は……」
まだ苦しそうに息をしながら、それでも言葉だけは確かめるように一つひとつ口にする。
「ミケリア……お前が好きだ」
今度こそ、はっきり聞こえた。
どうしよう。
本当にどうしよう。
カインが頭を打って変になってしまった。
ほんの少し前まで、この男はミモザへ求婚すると言っていたのである。そのための贈り物を探しに、わざわざこんな森の奥までやって来たのだ。
それなのに塀から落ちた途端、突然私を抱きしめて「好きだ」などと言い始めた。
どう考えても正常ではない。
さっきの落下で頭を強く打ったのだろうか。それとも古代遺跡の魔力に当てられたのか。どちらにしても、こんなところで立ち尽くしている場合ではなかった。
問題は、この状態のカインを連れてどうやって森から出るかである。
私は内心で必死に考えながら、できるだけ刺激しないよう声を落とした。
「カイン。分かったから、とりあえず動けるならここから出よう? ね?」
まずは王都へ戻る。
それから医者でも教師でも、とにかくまともな大人へ見せればいい。
そう自分へ言い聞かせながら離れようとしたのだが、カインの腕は解けなかった。
「……カイン?」
背中へ回った腕を押してみても、まるで動かない。
「カインってば!」
少し強く呼びかけると、ようやく拘束が緩んだ。
ほっと息をついたのも束の間、今度は身体をくるりと反対へ向けられた。
「え?」
何をされているのか理解する間もない。
背後から片腕で身体をがっしり押さえ込まれ、もう片方の手が私の髪へ伸びてくる。乱暴ではないものの、拒む隙すらないまま短い髪を掻き上げられ、首の後ろが露わになった。
「ちょ、何――」
そこへ、カインの左手の甲が重なった。
「はぁぁぁっ……!」
耳元で大きく息を吐く声が聞こえた。
先ほどまで苦しげだった呼吸とは明らかに違う。
張り詰めていた身体から一気に力が抜けたように、カインは深く息をつき、何かに満たされたような表情を浮かべている。
同時に、私の首筋にも奇妙な感覚が走った。
痛くはない。
けれど、先ほどから感じ始めた森の魔力とは違う何かが、触れられた場所を通じて動いているような、説明のできない感覚だった。
「ひゃぁ!? どこ触ってんのよ! 馬鹿!!」
ぞくりとして肩を竦め、私は反射的に身体を捩った。
ところが、カインの腕は信じられないほど強い。
「ちょっと、離して! 痛いってば!」
もともと力では勝てない相手なのに、今のカインは普段以上だった。背中へ回された腕へ両手をかけ、体重まで使ってどうにか隙間を作る。
「カイン! 離してって言ってるでしょ!」
何度も身体を捩り、ようやく腕の間から抜け出すことができた。
勢い余って数歩よろめきながら距離を取ると、私は乱れた呼吸を整えながらカインを睨みつけた。
「どうしちゃったのよ!!」
怒鳴ったつもりだった。
けれど、口から出た声は自分でも驚くほど震えていた。
さっきから何も分からない。
突然カインがおかしくなり、自分まで今まで感じたことのなかったものを感じるようになった。親友だと思っていた男からいきなり好きだと言われ、挙げ句の果てには力ずくで押さえ込まれた。
頭では、きっと何か理由があるのだと思っている。
いつものカインなら、私が本気で嫌がることをこんなふうに続けるはずがない。
それでも怖かった。
「なんなのよ……急に……」
視界が滲み、頬を一筋の涙が伝った。
それを見た瞬間、カインの表情が変わった。
「……ミッケ?」
先ほどまでどこか焦点の合っていなかった目に、はっと理性が戻る。
自分が何をしていたのか、ようやく認識したのだろう。私との距離と、自分の左手と、泣いている私とを順番に見て、カインは愕然としたように息を呑んだ。
「すまねぇ……」
掠れた声でそう言うと、それ以上近づいてくることはなかった。
「本当に……悪い。帰ろう……」
「……うん」
私もそれ以上、何かを問いただす気にはなれなかった。
とにかく帰りたい。
森を出て、アカデミーへ戻って、明るくて人のいる場所へ行きたかった。
けれど歩き出そうとして、ふと視界の隅に淡い光が映った。
「……あ。あれ……」
足を止めて目を向ける。
崩れた石壁の根元、苔と蔦の隙間から、一輪の花が顔を覗かせていた。
薄暗い遺跡の中で、透明な花弁が僅かな光を受けて淡く煌めいている。見る角度によって色を変えるその姿には、間違いようがなかった。
探していた宝石花だった。
カインも私の視線を追い、すぐに花へ気づいた。
「……あったな」
けれど、その声にはもう、ここへ来たときの喜びはなかった。
ミモザへ贈る花をようやく見つけたというのに、カインはどこか苦しそうな顔をしている。
その表情が気になったものの、私は何も言わなかった。
カインは宝石花の前へしゃがみ込むと、茎を傷めないよう慎重に根元へ指を添えた。さっきまでの荒々しさが嘘のような手つきで一輪を摘み取り、しばらく黙ってそれを見つめている。
そして立ち上がると、なぜか私の前へ来た。
「……何?」
問いかけても答えず、カインは宝石花を私の髪へそっと差した。
「ちょっと! 何してるの!?」
慌てて花へ手を伸ばす。
「これはミモザのでしょ!?」
そもそも、何のために私たちがここまで来たと思っているのだ。
ミモザの十六歳の誕生日に、カインが気持ちを込めて渡すための花だったはずである。
ところがカインは、私の髪に飾った宝石花を見つめたまま、静かに首を振った。
「いや……もう、ミモザには渡さない」
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
やっぱり頭を打っている。
絶対におかしい。
ほんの少し前まで、あれほど真剣にプロポーズの相談をしていた男が、そんな簡単に気持ちを変えるはずがない。
「……早く帰ろう?」
これ以上ここで話をしても仕方がない。
私は髪に挿された宝石花へ触れながら、半ば懇願するように言った。
カインも今度は素直に頷いた。
「ああ……帰ろう」
そのときだった。
ぽつり、と冷たいものが頬へ落ちた。
「ん?」
何だろうと思って空を見上げる。
頭上には相変わらず木々が密集していて、空などほとんど見えない。
けれど、もう一滴。
今度は額へ落ちてきた。
さらに肩へ、腕へと、冷たい雫が次々に落ち始める。
枝葉を叩く小さな音が、みるみる森全体へ広がっていった。
「えぇ!? うそ……」
間もなく、それが雨だと気づいた私は、思わず空を仰いだ。




