5.廃墟での異変
森のさらに奥へ進んでいくと、絡み合う木々の向こうに、ようやく見覚えのある石造りの建物が姿を現した。
長い年月を森の中で過ごしてきた古代遺跡は、以前訪れたときよりもずっと荒れているように見えた。灰色の外壁には蔦や苔がびっしりと張りつき、ところどころ石材が欠け落ちている。周囲の木々に半ば呑み込まれながら、それでも巨大な建造物としての形だけは辛うじて残していた。
「やっと着いたぁ……」
制服の袖で額の汗を拭いながら、私は安堵の息を漏らした。
ここまで来れば、あとは宝石花を探すだけである。以前、三人で訪れたときに使った入り口へ向かおうとしたのだが、数歩進んだところで、思わず足を止めた。
「えーー!? 前に来たときは崩れてなかったのに!」
かつて私たちが通った入り口は、跡形もないほど崩落していた。
大量の石材と土砂が積み重なり、扉があったはずの場所すら判別できない。隙間から入り込めないかと少し覗いてみたものの、とても人ひとり通れそうにはなかった。
ここまで散々歩かされた挙げ句にこれか、と私はがっくり肩を落とした。
「どうすんのよ。これじゃ入れないじゃん」
「まあ、いいじゃねぇか」
ところがカインは大して落胆した様子もなく、遺跡を囲む古い石塀を見上げた。
「塀から行くぞ」
「もー……」
何かもう少しまともな方法を探そうとは思わないのだろうか。
そう思ったところで、カインが聞くはずもない。すでに登りやすそうな場所を見つけて石塀へ近づいている背中を見ながら、私は諦めて後を追った。
石塀は私たちの身長よりかなり高かったものの、長い年月を経て表面には大小の凹凸が生まれている。手足をかけられる場所は多く、カインは慣れた様子で石の出っ張りへ靴を乗せ、両手を使って身体を引き上げていった。
ところが半ばまで登ったところで、手袋をした左手が石の表面を滑った。
「ちっ、邪魔だな」
苛立たしげに舌打ちすると、カインは左手を顔へ寄せ、手袋の端を歯で咥えた。そのまま乱暴に引き抜くと、ろくに後ろも確認せず放り投げる。
直後、ぺちっ、と湿った革の感触が私の額を直撃した。
私は無言のまま足元へ落ちた手袋を見下ろし、それからゆっくりと、塀の途中にいるカインを見上げた。
「ちょっと!! 汗臭い手袋投げないでよ! 顔に当たったじゃない!」
「わりぃ!」
口では謝っているものの、どう見ても反省などしていない。
カインは素手になった左手で石をしっかり掴み直すと、「よっと」と軽く声を漏らし、そのまま塀の上まで一気に身体を持ち上げた。
「ほんっと雑なんだから……」
ぶつぶつ文句を言いながら手袋を拾い上げ、適当に埃を払っておく。
その間にカインは塀の向こう側を覗き込み、危険がないことを確かめると、躊躇なく内側へ飛び降りた。しばらくして、向こう側から鈍い着地音が聞こえてくる。
「ミッケ、来れるか?」
「誰に言ってんのよ」
失礼な。
私はスカートの裾を邪魔にならないよう片手で押さえ、もう片方の手を石の窪みへかけた。
「まったく。私、か弱い女の子なんですけど」
口ではそう言いながら、足場を順番に拾って軽々と塀を登っていく。
下から眺めていたカインが、すぐさま呆れた声を返してきた。
「何がか弱いだよ。か弱いってのはミモザの――」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
私がちょうど塀の上へ立ち上がった瞬間、足元から嫌な音が響いた。
古びた石材が軋み、体重を支えていた部分が僅かに沈む。
「え?」
異変に気づいたときには、もう遅かった。
足元の石が崩れ、そのまま瓦礫と一緒に身体が傾いた。
「うわぁぁ!?」
慌てて手を伸ばしたものの、掴めるものなど何もない。支えを失った私は、そのまま遺跡の内側へ放り出された。
「お、おい!」
下にいたカインが反射的に両腕を伸ばす。
けれど、私の身体を真正面から受け止められるような姿勢ではなかった。
どん、と重い衝撃が地面へ響いた。
「ぐっ……!」
カインは私を受け止めようとしたまま体勢を崩し、地面へうつ伏せに倒れ込んだ。その上へ私まで斜めに折り重なるように落ちたため、互いの腕や脚が妙な方向へ投げ出され、上から見れば大きなXの字でも描いているような格好になってしまった。
落下の衝撃にしばらく目を閉じていたが、恐る恐る身体を確かめてみても、幸い激しい痛みはなかった。
「はぁ……危なかった……」
ゆっくり息を吐きながら胸を撫で下ろす。
カインが下敷きになってくれたおかげで、私はまともに地面へ叩きつけられずに済んだらしい。
「カイン、大丈夫?」
そう声をかけても、返事がない。
私の身体はカインの背中から少し斜めにずれていて、地面へ投げ出された彼の左腕と交差するような格好になっていた。そして、ちょうど私の首の後ろが、手袋を外したばかりのカインの左手の甲へ触れている。
偶然そうなっただけだった。
強く押しつけたわけでもなければ、特別な意味を持って触れたわけでもない。ただ、落下した拍子に首筋と手の甲が重なった。それだけの、ありふれた接触だったはずなのに――。
「ぐああああああッ!!」
耳元で突然響いた絶叫に、心臓が跳ね上がった。
「えぇ!? 何!? 骨でも折れた!?」
私は慌てて飛び起き、その拍子にカインの左手から首筋が離れた。
「うがっ……!」
カインは地面へ伏せたまま、喉の奥から押し殺すような声を漏らした。
私はてっきり、自分が上から落ちたせいで肋骨か背骨でも傷めたのだと思った。ところが慌てて覗き込んだカインの様子は、怪我をした人間のそれとは明らかに違っている。
「カイン……?」
両腕を地面につき、どうにか身体を起こそうとしているものの、呼吸はひどく乱れていた。額にはじわりと汗が滲み、瞳は大きく見開かれている。
「はっ……は……っ……」
「ちょっと、本当に大丈夫? どこ痛いの?」
心配になって肩へ触れようとすると、カインは私の指先が届くより先に、びくりと大きく身体を震わせた。
「分か……んねぇ……」
「分かんないって何よ!」
「痛く、ねぇ……」
「じゃあ何!?」
問い詰めても、本人にも説明できないらしい。
カインは荒い呼吸を繰り返しながら、自分の左手を食い入るように見つめていた。
先ほど私の首に触れていた、その手である。
指を握ったり開いたりしながら、自分の身体に起きたことを確かめようとしているらしいが、まるで理解が追いついていない。
「なんだ……これ……」
掠れた声が漏れる。
苦しそうではある。
けれど、その表情に浮かんでいるものは単純な苦痛だけではなかった。
何か途方もないものが突然身体の中へ流れ込み、全身を駆け巡っている。そんなふうに見えた。
呼吸を整えようとするたびに肩が震え、指先には力が入り、何か大きな波に翻弄されているかのようにカインの身体が強張る。それなのに痛みに耐えている人間とはどこか違い、混乱の奥には、本人自身が最も理解できていない奇妙な感覚が混じっているようだった。
「は……っ、くそ……何だよ、これ……!」
左手を強く握り締め、カインは理解できないものから逃れようとするように眉を寄せた。
けれど、そんな姿を目の前にしている私には、何が起こったのかまるで分からない。
私には魔力がない。
生まれてから今日まで、自分の中に魔力を感じたことなど一度もなかったのだから、カインの身体で何が起こっているのかを察しろと言われても無理な話だった。
「ねえ、本当に怪我じゃないの?」
「ち……が……う」
掠れた声で答えながら、カインはどうにか片膝をついた。荒い息を繰り返しながら、先ほどまで私の首筋に触れていた自分の左手と、目の前にいる私とを何度も見比べている。
その顔から、いつもの余裕は完全に消えていた。
何かを理解しようとしているようにも見えたし、逆に理解することそのものを恐れているようにも見える。けれど、どちらにしても、私にはカインの身に起きていることなど見当もつかなかった。
「じゃあ……どうし――」
そこまで言いかけた瞬間、背筋をぞわりと嫌なものが駆け抜けた。
「……な、なにこれ……」
思わず両腕で自分の身体を抱く。
寒いわけではない。風が吹きつけたわけでも、何かに直接触れられたわけでもなかった。
それなのに、見えない何かが肌のすぐ上を這い回り、身体の輪郭を舐めるように撫でていく。思わず振り払いたくなるほど、生理的な嫌悪を覚える感覚だった。
さっきまで私にとって、この森はただ薄暗く、不気味なだけの場所だった。
古代遺跡に残っているという魔力も、カインが嫌そうに話していた森の異様な空気も、私には何ひとつ感じられなかったはずなのに。
今は、違う。
木々の隙間にも、地面を覆う苔の上にも、湿り気を帯びた空気の中にも、目には見えない何かが満ちている。その存在が森全体から押し寄せ、肌へべったりとまとわりついてくるような感覚が途切れない。
「なん……なの、これ……」
自分の声が僅かに震えていた。
理由の分からない不快感に耐えきれず、私は周囲へ視線を巡らせる。
けれど、目に映る景色そのものは何も変わっていない。古い石壁を覆う蔦も、頭上で絡み合う枝葉も、僅かな風を受けて静かに揺れているだけだった。
それなら、変わったのは森ではない。
変わったのは――私のほうなのだ。
「ミッケ……」
背後から名前を呼ばれ、私は弾かれたように振り返った。
カインが、ようやく身体を起こしていた。
片手を地面について身体を支えながら、何度か深く息を吸い、覚束ない足取りで立ち上がろうとしている。顔色は決してよくなく、先ほどまでの異変が収まったようにも見えなかった。
「カイン?」
大丈夫なのかと近づこうとした、その瞬間だった。
カインがよろめくように一歩、こちらへ踏み出した。
もう一歩。
その動きに迷いはなく、気づいたときには大きな身体がすぐ目の前まで迫っていた。
「え――」
何が起きたのか理解するより先に、カインの両腕が私の身体へ回された。
次の瞬間、私はその胸の中へ、強く抱き込まれていた。




