10.ツイガイ主とツガイ伴
言われるまま、私は窓際の小さなテーブルへ移動して椅子に腰を下ろした。
カインは向かいへ座るのかと思ったが、その前に部屋の隅に置かれていたティーセットへ向かった。
ポットへ手を伸ばしたものの、すぐに湯を注ごうとはしない。蓋を開けて中を確かめると、片手をかざし、指先へ淡い魔力の光を灯した。
次の瞬間、ポットの中から湯がふわりと浮かび上がる。
「……相変わらず、その淹れ方するんだ」
思わず呟いた。
湯は一滴も零れることなく宙に留まり、透明な球となってカインの掌の上を漂っている。その下へ空になったポットを置くと、今度は反対の手で軽く指を鳴らした。
ほんの一瞬、湯を包む空気が揺らぐ。
沸騰させるほど強く熱するのではなく、茶葉に合わせて温度だけを細かく調整しているのだ。
昔のカインなら、そんな面倒な真似は絶対にしなかった。
けれど温度が整うと、カインは茶葉を量ってポットへ入れ、宙に浮かせていた湯を細い流れへ変えた。透明な帯のような湯が弧を描きながら静かに注がれ、最後の一滴まで収まると、今度は蓋の上へ人差し指を置く。
微かな魔力が流れ込み、中の湯がゆっくりと回り始めた。
茶葉を乱暴に掻き回すほどではなく、底へ沈みかけた葉をふわりと持ち上げ、湯の中を一度だけ巡らせる程度の、ごく弱い流れだった。
しばらくしてカインが指を離すと、回っていた湯もぴたりと止まる。
あとは何事もなかったようにカップを並べ、茶漉しを通して紅茶を注いでいった。
その一連の動作は、カインらしくないほど繊細で、驚くほど手慣れていた。
――違う。
その姿を眺めているうちに、胸の奥へ小さな棘のようなものが引っかかった。
この淹れ方を、私は知っている。
カインが何度も何度も練習して身につけたものだから。
ミモザへ、美味しい紅茶を淹れるために。
子どもの頃のカインは、礼儀作法なんて面倒臭いと平気で口にするような男だった。それがミモザと親しくなってからは、王女の隣へ立っても恥ずかしくないようにとダンスを習い、礼法を覚え、食事の作法から女性のエスコートまで、文句を言いながらも一つずつ身につけていった。
紅茶もその一つだった。
そして、なぜかその練習には私まで毎日のように付き合わされた。
『ミモザに出せるか見てくれ』
『またぁ? もう飲み飽きた!』
『いいから飲め』
そんなやり取りを、いったい何度しただろう。
私が飲んで、渋いだの薄いだの好き勝手に文句を言えば、カインは腹を立てながらもう一度淹れ直す。それも全部、最後にはミモザへ美味しい紅茶を出せるようになるためだった。
今、カインはその手で私のために紅茶を淹れている。
「……ほら」
目の前へカップが置かれた。
「ありがとう」
そう答えたものの、手を伸ばす気にはなれなかった。
白い湯気とともに柔らかな茶葉の香りが立ち上っている。以前なら何も考えず口をつけていたはずなのに、今日はどうしても飲む気になれない。
カインはそんな私をしばらく見ていたが、何も言わなかった。自分の分の紅茶を用意すると、ようやく向かいの椅子へ腰を下ろす。
テーブルを挟んで向き合った途端、先ほどまでよりも空気が重くなった気がした。
「……それで?」
黙っているのに耐えられず、私から口を開く。
「ツガイ主って何なの?」
「ああ」
カインはすぐには話し始めず、私にも分かる言葉を探しているのか、少し考えてから口を開いた。
「まず、ツガイには二人いる。片方が『ツガイ主』で、もう片方が『ツガイ伴』だ」
「主と、伴?」
「そう」
カインは左手をテーブルの上へ置いた。
手袋を外したままの甲には、先ほど見せられた紋がはっきりと浮かんでいる。
「主になるのは、基本的に始祖種族の血を受け継いでる高位貴族だ。俺ならグレゴリー家だから、獣人族の血だな。その中でもツガイ主として生まれた人間には、こういうツガイ紋が左手の甲に現れる」
「生まれたときから?」
「ああ。だから俺の家族は、俺がツガイ主だって昔から知ってた」
カインは左手の甲へ視線を落としたまま、少しだけ言いにくそうに続けた。
「それに……俺、親父にも母さんにもあんまり顔が似てねぇだろ」
「まあ……確かに」
「ツガイ主ってのは、そういうふうに生まれるらしい。容姿も、声も、匂いも……ツガイ伴が強く惹かれやすいように、最初から整えられて生まれてくるんだと」
あまりにもさらりと言われて、私は思わず眉を寄せた。
「……あんた、自分で容姿端麗って言ってる?」
「俺が決めたわけじゃねぇよ」
「いや、そうだけど」
呆れはしたものの、否定する気にはなれなかった。
実際、カインは昔から人目を引く子どもだった。何もせず黙っているだけでも目立つし、今だって放っておけば令嬢たちに囲まれ、きゃあきゃあと騒がれていてもおかしくない。
ただ、長いあいだミモザの存在があったせいか、本人の周囲がそういう雰囲気になることはほとんどなかった。
私自身も、付き合いが長すぎてすっかり見慣れてしまっている。
けれど、初めて会った頃は違った。
教室の隅で一人、本を読んでいたカインを見つけたとき、最初に思ったのは、綺麗な子がいる、だった気がする。そのせいで興味を持ち、返事が素っ気ないのもお構いなしに何度も話しかけたのだから、考えてみれば私だって周囲の子どもたちと大して変わらなかったのだろう。
そこで、ふと別の疑問が浮かんだ。
「じゃあ……みんな、カインがツガイ主だって知ってたの?」
「全員じゃねぇよ。気づいてる奴はいたかもしれねぇけど、わざわざ公表することでもないからな」
カインは一度言葉を区切り、少し躊躇ってから続けた。
「ただ、高位貴族の家なら知ってる。ツガイのことも、ツガイ主の紋を隠す理由も、子どもの頃から教えられるから」
「じゃあ……ミモザも?」
ほんの僅かな沈黙が落ちた。
それだけで、答えを聞く前から嫌な予感がした。
「ああ。知ってた」
その瞬間、胸の奥で何かがかっと熱くなった。
「じゃあ、知ってて……ミモザの気持ち弄んだの?」
思わず両手でテーブルを叩くと、カップの中の紅茶が大きく揺れ、琥珀色の雫が受け皿へ零れた。
「違う!」
カインもすぐに声を上げた。
けれど、その勢いは長く続かなかった。握り締めた拳を見つめるように視線を落とし、しばらく黙ったあと、苦しそうに息を吐く。
「……違う。でも、結果だけ見れば……そうなった」
「だったら何が違うのよ」
「俺は、本当にミモザが好きだった」
返事に迷いはなかった。
思わず黙り込んだ私へ、カインは逃げることなく言葉を続ける。
「誕生日に気持ちを伝えるつもりだったのも本当だ。結婚できたらって思ってたのも、宝石花を渡したかったのも……全部、本気だった」
「じゃあ、なんで……」
「ツガイ伴が現れたからだ」
静かな声だった。
私はますます意味が分からなくなって眉を寄せた。
「そんなの、気にしなければいいじゃん」
ツガイだか運命だか知らない。
今まで好きだった相手がいるなら、その人を好きでいればいいではないか。別の誰かを運命の相手だと言われたところで、そんなもの無視してしまえば済む話に思えた。
ところがカインは、ゆっくりと首を横に振った。
「無理なんだよ」
「何が?」
「ツガイ主は……ツガイ伴を見つけて覚醒したら、もうそれまでと同じではいられない」
その声には、諦めにも似た重さがあった。
「ツガイ主とツガイ伴の紋が初めて触れると、主の中にある妖力回路が開く。それまで使えなかった妖力が使えるようになって、伴から流れてくる高純度の魔力を受け取り、それを妖力へ変えられるようになるんだ」
「……高純度の魔力?」
「ああ。森で俺がおかしくなっただろ」
その言葉に、私は反射的にカインの左手を見た。
崩れた塀から落ちたとき、私の首の後ろへ触れた、あの手。
その直後から、何もかもがおかしくなった。
「俺が急に妖力を使えるようになったのも、それが原因だ。今まで閉じてたものが、一気に開いた」
「じゃあ、あの耳も……?」
「先祖返りだ。グレゴリー家に流れてる獣人族の血が、妖力に反応して強く出た」
森で起きた不可解な出来事が、少しずつ意味を持ちはじめる。
けれど、カインが獣人族の力を使えるようになったことと、ミモザへの気持ちまで変わったことが、私の中ではどうしても結びつかなかった。
「でも、それは力の話でしょ?」
「それだけじゃねぇんだ」
カインが顔を上げ、真っ直ぐ私を見る。
「覚醒すると、主の本能も変わる」
「本能……?」
「ツガイ伴を、どうしようもなく大事に感じるようになる」
胸の奥が僅かにざわついた。
「そばにいたい。守りたい。触れたい。何より優先したいし、離れたくない。そういう感情が、自分でも抑えきれないくらい一気に押し寄せてくる」
カインは言葉を選びながら、それでも誤魔化さずに話していた。
「好きになろうと思って好きになるんじゃねぇ。気づいたときには、もうそうなってる」
「……じゃあ、洗脳みたいなもの?」
「違う」
そこだけは、はっきりと否定された。
「俺の頭がおかしくなったわけでも、人格が別人になったわけでもねぇ。ミモザと過ごしたことだって全部覚えてるし、あいつを好きだった気持ちまで偽物になったわけじゃない」
カインの表情が僅かに歪んだ。
「だから余計に……俺だって、どうしたらいいのか分かんねぇんだよ」
その言葉を聞いて、私は初めて何も返せなくなった。
カインだって、好きでこうなったわけではないのだ。
ほんの数日前までミモザへ求婚するつもりでいた。その気持ちは本物だったのに、森で何かが目覚めた途端、それまでとは比べものにならないほど強い感情が生まれてしまった。
それでも、一つだけ気になることがあった。
「じゃあ……ツガイ伴のほうも同じなの?」
尋ねると、カインは少しだけ目を伏せた。
「……いや」
「違うの?」
「ああ。伴には、そういう本能は出ない」
思ってもいなかった答えだった。
「ツガイ主がどれだけ伴を求めても、伴まで勝手に主を好きになるわけじゃねぇ。嫌いなら嫌いなままだし、怖ければ怖い。別に好きな奴がいるなら、そいつを好きなままでいられる」
「……何それ」
思わず口から漏れた。
「それじゃあ、主だけ一方的じゃん」
「そうだよ」
カインは否定しなかった。
その返事があまりにあっさりしていたせいで、かえって胸の奥が冷えていく。
「ほんとに何それ……。何それだよ……」
自分でもどうしてこんなに動揺しているのか分からないまま、私は視線を落とした。
手をつけないまま置かれていた紅茶はすっかり冷めかけ、もうほとんど湯気も立っていない。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ツガイ主とツガイ伴の紋が触れれば、主は覚醒する。それまで閉じていた妖力回路が開き、伴から流れ込む高純度の魔力を受け取れるようになり、同時に、その相手をどうしようもなく求めるようになる。
今聞いたばかりの話を頭の中で辿っているうちに、森で起きた出来事が、まるで最初から一つの答えへ向かっていたかのように繋がり始めた。
崩れた塀から二人で落ちたとき、カインの左手の甲が私の首の後ろへ触れた。その直後、カインは突然妖力を使えるようになり、獣人族の特徴まで現れた。そればかりか、あいつは私を抱き締めて、何度も好きだと言った。
そして私自身にも、それまでにはなかった変化が起きている。
生まれてから一度も感じたことのなかった魔力を感じるようになり、とうとう自分の手から魔法まで出した。
そこまで考えたところで、喉の奥がひどく乾いた。
まさか、と否定したいのに、別の理由を探そうとすればするほど、今までの出来事がその逃げ道を塞いでいく。
「だって、それじゃあ……」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
「私が……ツガイ伴みたいな……」
最後まで言い切ることもできないまま、恐る恐る顔を上げた。
カインは否定しなかった。
何も言わず、ただ私を見つめている。
その眼差しを見た瞬間、胸の奥に僅かに残っていた期待まで消えていった。
森で初めて向けられて以来、何度も私を落ち着かなくさせてきた柔らかな目。それはずっと以前から知っているものであり、かつてカインがミモザだけに向けていた、好きな女を見るときの眼差しだった。
馬鹿なことを言うなと否定してほしかった。
そんなわけがないと、いつもの調子で笑い飛ばしてくれればよかった。
けれどカインは、何も言わない。
言葉などなくても、その目を見れば分かってしまった。
全身からゆっくりと血の気が引いていくような感覚の中で、私はとうとう理解した。
あの日、森でカインが見つけたツガイ伴は――私なのだ。




