11.居場所のないミッケ
椅子が床を擦る音が、静かな部屋に鋭く響いた。
気づいたときには、私は勢いよく立ち上がっていた。冷めた紅茶も、テーブルの上に置かれたカインの左手も、その甲に刻まれたツガイ紋も、何もかもそのままにして扉へ向かう。
「ミッケ!」
背後から名前を呼ばれたが、振り返ることはできなかった。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
カインのツガイ伴が私だなんて、そんなことがあっていいはずがない。
あいつはミモザが好きだった。ミモザだってカインを想っていて、私はずっと二人を応援してきた。十六歳の誕生日にはカインが気持ちを伝えて、その先にはきっと結婚があるのだと、疑ったことすらなかった。
それなのに、森でたまたま触れただけで全部が変わってしまったなんて、そんなものを簡単に受け入れられるはずがなかった。
「ミッケ、待て!」
追いかけてくるカインの声を振り切るように、私は廊下へ飛び出した。
角を曲がったところで、リネンを抱えたメイドと危うくぶつかりそうになる。慌てて身体を避けた彼女の腕から布が何枚か零れ落ち、その先では別の従者が驚いて足を止めた。
「ミケリア様!?」
「危ないですよ!」
いくつもの声が背中へ飛んでくる。
普段なら立ち止まって謝っただろう。けれど今は、そんな余裕すらなかった。
長い廊下を走り抜け、階段を駆け下り、広い玄関広間を抜ける。屋敷の扉を押し開けた途端、昼下がりの眩しい陽射しが目に刺さった。
数日前まで高熱で寝込んでいた身体が、こんなに走っていいはずもない。けれど足を止めれば、さっき聞かされた話のすべてが現実になってしまうような気がして、私はそのままアカデミーの方角へ向かった。
胸が苦しいほど息を切らしても、頭に浮かぶのはミモザのことばかりだった。
会わなくちゃ。
何を言えばいいのかは分からない。謝ればいいのか、それとも私は何も知らなかったのだと説明すればいいのか。そもそも、自分が何を謝らなければならないのかさえ分かっていなかった。
それでも、ミモザに会わなければならないということだけは、どうしようもなく強く思った。
どれほど走ったのか、ようやく王立魔導アカデミーの校舎が見えてきた頃には、ちょうど午後の授業が終わる時間になっていた。
正門へ続く道には制服姿の生徒たちが次々と溢れ出し、友人同士で談笑しながら寮や馬車乗り場へ向かっている。その人波の中を息を切らしながら進み、私は必死に見慣れた緑色を探した。
そして、ほどなくしてその姿を見つけた。
「……ミモザ」
鮮やかな緑の髪は、人混みの中でも見間違えようがない。
数人の令嬢を連れて歩いていたミモザも、こちらに気づいて足を止めた。
その顔を見た途端、胸がいっぱいになった。
誕生日を祝えなかった。あれだけ楽しみにしていたのに、約束していたのに、それどころかカインまでパーティーへ行かなかった。
今にも涙が零れそうになりながら、私は彼女へ一歩近づいた。
「ミモ――」
最後まで名前を呼ぶことはできなかった。
ミモザが取り巻きの令嬢たちを残し、真っ直ぐこちらへ歩いてきたからだ。
いつものような笑顔はない。怒りだけでもないように見えた。唇を強く引き結び、目の奥には今にも溢れそうな涙が滲んでいる。
「ミモザ……?」
何か言わなければと思った、その瞬間だった。
乾いた音が響き、頬へ鋭い痛みが走った。
衝撃に顔が横を向き、遅れてじんじんと熱を帯びてくる頬へ手を添える。何をされたのか理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
目の前では、ミモザの右手が震えていた。
「この泥棒猫!!」
今まで一度も聞いたことのないほど鋭い声だった。
「ミモ……ザ……?」
「二度と私の前に現れないで!!」
ミモザの瞳には涙が溜まっていた。
けれど、それを私の前で零すことだけは嫌だったのかもしれない。彼女はすぐに背を向けると、そのまま私の横を通り過ぎていった。
「待って……」
呼び止めようとした声は、ほとんど形にならなかった。
どうして、こんなことになっているのだろう。
振り返っても、ミモザは一度もこちらを見なかった。取り巻きの令嬢たちが慌ててその後を追っていく中、何人かだけがその場に残り、私へ露骨な嫌悪の眼差しを向けてくる。
「よくまだ殿下の前に顔を出せたわね」
「本当に信じられない」
知らない令嬢の声が、容赦なく耳へ刺さった。
「ずっとお友達のふりをしていたんでしょう?」
「第三王女殿下の想い人だと知っていながら、カイン様を奪ったそうじゃない」
「しかも誕生日の直前ですって。最低ね」
「違う……」
ようやく、それだけを絞り出した。
「違う。そうじゃ……私……」
けれど、その先が続かなかった。
私は何もしていない。
カインを奪おうとしたことなんて一度もない。それどころか、二人が結婚する未来を誰より楽しみにしていたくらいだ。
けれど、そんなことを今ここでどう説明すればいいのだろう。
カインが突然私を好きになったのは、私があいつのツガイ伴だったから――そんな話をしたところで、それでミモザが傷つかなかったことになるわけではない。
「何も知らなかったみたいな顔してる」
「本当に知らなかったんじゃない? 平民だもの」
「でも、カイン様が殿下を捨てたのはあの子のせいでしょう?」
周囲にいた生徒たちまで、何事かと足を止め始めていた。
囁き声は少しずつ増え、やがて誰が何を言っているのかも分からなくなった。ただ、そのすべてが自分へ向けられているように聞こえる。
これ以上そこにいることはできなかった。
私は再び走り出した。
誰かが背後で何かを言った気がしたが、もう聞きたくなかった。
校舎を抜け、寮へ続く道を駆ける。
とにかく一人になりたかった。自分の部屋へ戻り、扉を閉めて、誰の顔も見ずに布団へ潜り込んでしまいたかった。
ようやく女子寮へ辿り着き、息を整える暇もなく見慣れた廊下を進む。自分の部屋の前まで来ると、震える手で扉を開けた。
「……え?」
そこで、足が止まった。
部屋そのものは変わっていない。ベッドも机も棚も、以前と同じ場所にある。
けれど、そこに置いていたはずの私物だけが綺麗になくなっていた。
本も、服も、机の上に並べていた小物も、壁に掛けていた鞄もない。生活していた痕跡だけを丁寧に抜き取られたようで、まるで最初から誰も暮らしていなかった部屋に見えた。
「私の……部屋……」
呟いた声が、妙に広く感じられる室内へ虚しく落ちた。
何が起きているのか分からない。誰が荷物を持ち出したのかも、その荷物がどこにあるのかも知らなかった。
ただ、ミモザに拒絶された直後だったせいか、ここにももう自分の居場所はないのだと告げられているように思えてしまった。
しばらく扉の前に立ち尽くしたあと、私はゆっくり廊下へ戻った。
だったら、家へ帰ろう。
そう思った。
お母さんも、お父さんもいる。
急に帰ったら驚くだろうし、何日もグレゴリー家に泊まったあとで何の連絡もせず戻れば、きっと怒られるだろう。それでも、家なら帰っていいはずだった。
そこだけは、何があっても変わらない。
そう信じたかった。
アカデミーを出た頃には、陽はかなり傾いていた。
さすがにもう走る体力は残っておらず、私は重くなった足を引きずるように家へ向かった。昼の明るさは少しずつ薄れ、街灯が一つ、また一つと灯る頃には、辺りはすっかり夜になっている。
「……急に帰ったら、お母さん怒るかな」
自分を落ち着かせるように、小さく呟いた。
きっと怒る。
連絡くらいしなさいと言われるだろうし、お父さんにも、何をしていたんだと呆れられるかもしれない。
そんな、いつもと変わらないやり取りを想像しているうちに、ようやく見慣れた家が見えてきた。
けれど、近づくにつれて足が遅くなる。
妙に暗かった。
「……あれ?」
窓から明かりが漏れていない。
もう夕食を終えるような時間なのに、家の中には人の気配がまるでなかった。
胸の奥に、今日何度目になるのか分からない嫌な感覚が広がっていく。
扉へ手を掛けると、鍵は開いていた。
「ただいま……?」
恐る恐る中へ入る。
返事はなかった。
玄関にはいつも置かれているはずの靴がなく、居間へ続く扉を開けても誰もいない。台所を覗いても、寝室を確かめても、家族の姿はどこにも見当たらなかった。
それどころか、少しずつ違和感の正体が見えてくる。
生活に使っていた物がいくつもなくなっている。棚の中も不自然なほど片づけられ、誰かが少し出かけているというより、ここで暮らしていた人たちが荷物をまとめていなくなったように見えた。
昼間に見た、自分の寮の部屋とよく似ていた。
そのことに気づいた瞬間、それまでどうにか押さえ込んでいた恐怖が一気に込み上げてきた。
「お母……さん?」
暗い家の中へ呼びかけても、声は空しく消えていく。
私は居間を見回し、もう一度、今度は少し大きな声で家族を呼んだ。
「おとう……さん?」
それでも、誰も答えなかった。




