12.あの日。
数日前――ミッケが森の出口で意識を失った、あの日。
腕の中の身体は、雨に濡れているというのに異様なほど熱かった。
「ミッケ……おい、ミッケ!」
何度呼びかけても返事はない。濡れた髪が頬へ張りつき、力の抜けた頭が走るたびに俺の胸元で揺れている。
ほんの少し前まで、あれほど疲れ切った顔をしながらも自分の足で歩いていた。それなのに森を抜けた途端、糸が切れたように崩れ落ち、今は瞼すら開こうとしない。
ただの高熱ならいい。
疲れと雨のせいで倒れただけなら、それでいい。
そう思おうとしても、遺跡で起きたことが頭から離れなかった。
崩れた塀からミッケが落ちてきて、俺の左手の甲と、あいつの首の後ろが触れた瞬間。身体の奥へ、それまで一度も感じたことのないものが一気に流れ込んできた。
濃く、熱く、それなのに恐ろしいほど心地よい魔力だった。
全身を駆け巡るその力に身体の芯まで揺さぶられ、気づけば俺は今まで使えなかったはずの妖力まで使っていた。
そして、その直後からミッケまでおかしくなった。
もし、俺と触れたせいだったら。
その考えが浮かんだだけで、胸の奥が凍りつくように冷えた。
「待ってろ。すぐ帰るから」
返事のないミッケを抱き直し、地面を強く蹴る。
次の瞬間、景色が一気に後ろへ流れた。
自分でも信じられないほど身体が軽い。脚へ力を込めるたびに地面を蹴る感覚が遠のき、一歩ごとに今までとは比べものにならない距離を進んでいく。
これも妖力なのだろう。
頭ではそう理解したものの、今は確かめる気にもならなかった。
少しでも早く、一秒でも早くミッケを医者に診せなければならない。そのことしか考えられず、雨に濡れた街道をひたすら駆け抜けた。
どれほど走ったのか、自分でもほとんど覚えていない。
気づけばグレゴリー公爵邸の門を抜け、玄関前まで一気に駆け込んでいた。
「開けろ!」
叫ぶより早く扉が開く。
突然飛び込んできた俺たちの姿を目にした使用人たちは、一様に目を見開いた。
「坊ちゃん!?」
「ミ、ミケリア様!?」
驚くのも無理はなかった。
俺もミッケも頭から爪先までずぶ濡れで、制服からは絶えず水が滴っている。しかも腕の中のミッケはぐったりと力を失ったまま、ぴくりとも動こうとしない。
「医者を呼んでくれ!」
自分でも驚くほど大きな声が玄関広間へ響いた。
「早く!」
「は、はい!」
「すぐに主治医へ連絡を!」
呆然としていた使用人たちが、その声を合図にしたように一斉に動き出した。
メイドの一人が医師を呼ぶため駆けていき、別の者たちは温かい湯や乾いた布を用意しようと屋敷の奥へ散っていく。
「一体、何の騒ぎだ」
慌ただしい物音を聞きつけたのか、奥の廊下から親父が姿を現した。
「カイン、お前――」
俺を見るなり何か言おうとした親父の視線が、途中でぴたりと止まった。
正確には、俺の頭上を見ている。
その顔から驚きが滲んだのを見て、すぐに思い当たった。
森でミッケが言っていた。
俺の頭に、獣の耳が生えていると。
どうやら、まだ消えていないらしい。
「……なんと」
親父は目を細め、まじまじとこちらを見たあと、低い声で呟いた。
「覚醒したのか」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥へ押し込めていた疑問が一気に噴き出した。
「親父」
ミッケを抱いたまま、俺は親父を睨んだ。
「いつから知ってたんだよ」
「何をだ」
「とぼけんな」
思った以上に声が荒くなる。
「ミッケ……いや、ミケリアが俺のツガイだって、いつから気づいてた?」
親父はすぐには答えなかった。
俺の顔を見たあと、腕の中で意識を失っているミッケへ静かに視線を落とす。
その沈黙だけで、何も知らなかったわけではないのだと分かってしまった。
「……話は後だ」
「親父!」
「今はそんな話をしている場合ではないだろう」
普段よりも厳しい声で遮られ、思わず口を閉ざした。
「お前もミケリア嬢も全身ずぶ濡れだ。まず身体を温めなさい。それに、ミケリア嬢は一刻も早く医者へ診せる必要がある」
言われなくても分かっている。
分かっているからこそ、腹が立った。
自分だけが何も知らないまま、今までずっとミッケのそばにいたのではないかと思うと、胸の奥がざわついて仕方がない。
「坊ちゃん、ミケリア様はこちらへ」
年嵩のメイドが俺のそばまで来ると、二階へ続く階段を示した。
「いつものお部屋はすぐに使えるようになっております。お湯もただいま用意いたしますので」
「ああ」
差し出された腕へミッケを渡す気にはなれなかった。
そのまま自分で抱き直し、二階へ向かう。
昔からミッケが泊まりに来るたび使っていた部屋は、今日もすぐ人を寝かせられるほど綺麗に整えられていた。
子どもの頃は、それを不思議に思ったことすらない。
ミッケがよく遊びに来るから、あいつのための部屋がある。
ただ、それだけだと思っていた。
けれど、親父の先ほどの反応を見たあとでは、今まで当たり前だと思っていたことの一つ一つに、別の意味が隠されていたのではないかと思えてくる。
部屋へ入ると、待っていたメイドたちがすぐに寝台を整えた。
ミッケをそっと横たえると、今度は俺まで「そのままでは風邪をひきます」と半ば強引に別室へ追い出され、濡れた制服を脱いで風呂へ入れられた。
けれど、湯に浸かっても少しも落ち着かなかった。
目を閉じれば、ぐったりしたミッケの顔が浮かぶ。
熱はもっと上がっていないか。呼吸は苦しくなっていないか。本当に目を覚ますのか。
気づけば、そんなことばかり考えていた。
今までだってミッケが怪我をしたり、熱を出したりしたことくらいはある。
けれど、こんなふうに何も手につかなくなるほど心配したことはなかった。
そこに気づいた瞬間、自分の中で何かが明らかに変わってしまったことを嫌でも思い知らされた。
結局、身体を十分に温めることもなく湯から上がり、急いで服を着替えてミッケの部屋へ戻った。
ちょうど主治医が到着したところだった。
寝台には乾いた寝間着へ着替えさせられたミッケが横たわっている。濡れていた髪も丁寧に乾かされていたが、頬は熱のせいで赤く染まり、額にはうっすら汗が滲んでいた。
医師は熱を測り、脈を取り、瞳や呼吸の状態を確認したあと、今度は魔力を調べるための魔道具まで取り出した。
俺は少し離れた場所に立ったまま、その様子から一度も目を離せなかった。
やがて一通り診察を終えた医師は、魔道具に浮かんだ数値を確かめてから、ゆっくり息を吐いた。
「命に関わるような状態ではありません。まずはご安心ください」
その言葉を聞いた途端、張りつめていた身体からようやく少しだけ力が抜けた。
「じゃあ、なんでこんなに熱が出てるんだ」
「おそらく、ツガイ覚醒による急激な魔力経路の変化が原因でしょう」
「覚醒で?」
「はい」
医師は眠っているミッケへ視線を向けた。
「通常、魔力を持つ者は幼い頃から自然に体内の魔力を巡らせ、成長とともに外へ放出する術を身につけていきます。しかしミケリア様は、これまで魔力を持たないものとして扱われてきたのでしょう?」
「ああ。何度調べても、魔力はないって言われてた」
「ですが、今のミケリア様には明確に魔力があります。それも、かなり純度が高い」
思わず寝台へ目を向けた。
「……どういうことだよ」
「おそらく、魔力そのものが存在しなかったのではありません」
医師は測定器を置き、説明する言葉を慎重に選ぶように続けた。
「ツガイ伴という性質のため、覚醒前は体内の魔力を正常に巡らせ、外へ放出するための経路が閉じた状態だったのでしょう。魔力そのものは持っていても、それを外へ流す術がなかったため、従来の測定では魔力を持たない者と判断されていた可能性があります」
「それが……俺と覚醒したことで開いたってことか?」
「その可能性が高いと思われます」
医師は頷いた。
「お二人のツガイ紋が触れたことで、初めて双方の回路が繋がった。カイン様の側では閉じていた妖力回路が開き、ミケリア様の側では、これまで使われていなかった魔力経路が一気に動き始めたのでしょう」
眠っているミッケの額へそっと手を当てながら、医師はさらに続ける。
「長いあいだ静止していた経路へ、突然大量の魔力が流れ始めたようなものです。身体にとっては相当な負担になります。そこへ森を長時間歩いた疲労と、雨に濡れて身体が冷えたことまで重なった。それらが高熱を引き起こしたと考えるのが自然でしょう」
「……治るんだよな?」
口から出た声は、自分でも驚くほど低かった。
医師はそんな俺を見ると、安心させるように穏やかに頷いた。
「ええ。今は身体が新しい魔力の流れへ適応しようとしている段階です。無理をさせず、熱が下がるまで安静にしていれば、いずれ目を覚ますでしょう」
命に関わらない。
ちゃんと目を覚ます。
そう聞かされたというのに、それだけですぐ安心できるほど簡単ではなかった。
寝台へ視線を戻す。
ミッケは眠ったまま、静かに呼吸を続けている。
胸が規則正しく上下していることを何度も確かめて、ようやくほんの少しだけ息を吐くことができた。
けれど、不安が消えたわけではない。
それどころか、今度は別の疑問がはっきりと頭をもたげていた。
親父たちは、どこまで知っていた?
俺がツガイ主であることは、生まれたときから知られていた。
それは分かる。
けれど、もしミッケが俺のツガイ伴だと、もっと前から気づいていたのだとしたら。
どうして俺には何も教えなかった。
そして何より――。
どうしてミッケのための部屋が、この家には昔から当たり前のように用意されていたんだ。




