13.はじまりは8歳の頃だった
そこは、グレゴリー公爵アルバトラの書斎だった。
壁一面を覆う書棚には分厚い書物が隙間なく並び、部屋の中央に据えられた重厚な執務机には、処理を待つ書類が几帳面に積み重ねられている。カインにとっては、幼い頃から何度も呼び出され、叱責や説教を受けてきた馴染み深い場所だった。
向かいに立つアルバトラは、息子と同じく大柄で、年齢を重ねても衰えを感じさせない体躯をしていた。けれど顔立ちはカインとそれほど似ておらず、鋭い眼差しと落ち着いた佇まいには、長く公爵家を率いてきた者らしい威圧感がある。
普段なら、この部屋へ入るだけで多少なりとも身構える。けれど今は、そんなことを気にしている余裕などなかった。
風呂を済ませ、雨に濡れた制服から着替えても、胸の奥に燻る苛立ちは少しも収まっていない。
父に促されるまま応接用のソファーへ腰を下ろしたものの、背もたれへ身体を預ける気にはなれず、カインは前屈みになったまま、向かいに座るアルバトラを睨むように見つめた。
「それで……いつから気づいてたんだよ」
低く問いかけると、アルバトラは息子の険しい顔をしばらく眺めたあと、諦めたように小さく息を吐いた。
「お前たちが八歳の頃だ」
「……八歳?」
「ああ。覚えているか? お前がミケリア嬢をこっそり屋敷へ連れ込んだ日のことを」
その言葉に、ずいぶん昔の記憶が蘇った。
アカデミーでミッケと知り合って、まだそれほど時間が経っていなかった頃だ。遊びの延長で屋敷まで連れてきたものの、二人とも泥だらけの格好で玄関を通ろうとして、父にひどく叱られた。
「……平民を勝手に家へ連れてくるなって怒られた日か」
「そうだ。もっとも、あまりにも泥だらけだったからな。そのまま帰せば今度は先方の親御殿に申し訳が立たん。屋敷を汚されても困るから、風呂へ入って着替えてから帰るよう言った」
アルバトラは当時を思い返すように目を細めた。
「その後だ。ミケリア嬢の世話をしていたメイドが、血相を変えて私のところへ飛び込んできた」
その口調に、カインの眉が寄った。
「何があった?」
「首の後ろに、紋があるとな」
その一言で、森での出来事が脳裏に蘇る。
崩れた塀からミッケが落ちてきたとき、自分の左手の甲が偶然触れた場所。後頭部に近い、髪に隠れた首の後ろだった。
「場所が悪くてな。後頭部に近いうえ、普段は髪に半分ほど隠れていたらしい。普通に生活しているだけなら、まず気づかんだろう。だが入浴のために髪を上げたことで、はっきり見えたそうだ」
そこでアルバトラは言葉を区切り、カインの左手へ視線を落とした。
「お前のものと対になる、ツガイ紋だった」
「……なんだよ、それ」
喉の奥から出た声が、自分でも分かるほど低くなった。
「じゃあ、本当に……八歳の頃から分かってたのか?」
「ああ」
「だったら、なんで……」
胸の奥に溜まっていたものが堪えきれず、カインは身を乗り出した。
「なんで俺に言わなかったんだよ!」
怒鳴り声が静かな書斎へ響いた。
けれど、アルバトラは顔色一つ変えなかった。
「まだ覚醒させるわけにはいかなかったからだ」
「何?」
「ツガイ主とツガイ伴は、互いの紋が触れれば覚醒する。まだ八歳だったお前たちに、その状態を引き起こさせるわけにはいかんだろう」
あまりにも当然のこととして返され、カインは一瞬言葉に詰まった。
「だから、お前にはそれまで通り左手の手袋を外さないよう言いつけ、ミケリア嬢についてはこちらで静かに見守ることにした。いずれお前が十六歳を迎えれば、正式に事情を話すつもりだった。そこまで待てば済む話だったからな」
「済む話って……」
納得できるはずがない。
しかしアルバトラは、息子の不満を理解したうえでなお判断を変える気はないらしく、わずかに眉を上げた。
「逆に聞こう。お前は今まで、一度も不思議に思わなかったのか?」
「何がだよ」
「平民の娘が、なぜ公爵家へあれほど自由に出入りできたと思っている」
カインは口を閉ざした。
「遊びに来れば専用同然の部屋まで用意され、長期休暇には何日滞在しても誰も咎めない。王女殿下と親しくなったとはいえ、王城への出入りまで認められ、高位貴族が集う場へ顔を出すことも黙認されていた。普通の平民の子どもに与えられる待遇ではない」
父の言葉を聞くうちに、これまで何の疑問も抱かなかった光景が、一つずつ違う意味を持ちはじめた。
ミッケが泊まりに来るたび、当たり前のように用意されていた部屋。
公爵家の使用人たちも、最初こそ平民の子どもとして距離を取っていたはずなのに、いつの間にか彼女が屋敷を歩き回っていても誰も咎めなくなった。
あまりにも自然だったから、考えたことすらなかった。
「……友達だったから」
「何?」
「俺の友達だし……みんな、ミッケに優しくしてくれてるんだと思ってた」
「優しさ、か」
アルバトラは呆れたように息を吐いたが、その口元には僅かな苦笑も浮かんでいた。
「お前は身体ばかり随分と大きくなったが、中身はまだまだ子どもだな」
「うるせぇ」
「どれだけ礼法を覚え、剣を学び、貴族としての教養を身につけようとも、そういうところは昔から変わっていない」
いつもなら、もっと食ってかかっていただろう。
けれど今は、そんな気力さえ湧かなかった。
八歳の頃から、大人たちは知っていたのだ。
父も、母も、屋敷の使用人たちも、ミッケが自分のツガイ伴だということを知ったうえで、二人を見守っていた。
何も知らされずにいたのは、自分とミッケだけだった。
「……気づいてたんなら、教えろよ」
俯いたまま、カインは絞り出すように呟いた。
「教えてくれてたら……あんなことにはならなかった」
「あんなこと?」
父に問い返されても、すぐには答えられなかった。
真っ先に浮かんだのは、ミモザの顔だった。
明日で十六歳になる少女。
ずっと好きだった。
ミモザが笑えば自分まで嬉しくなり、他の男と親しげに話していれば面白くなかった。王女だからでも、美しいからでもなく、ミモザだからこそ隣にいたいと思っていた。
「……俺は、第三王女殿下に恋をしてた」
その告白に、アルバトラの表情が僅かに変わった。
「ミモザ王女に?」
「ああ」
今さら隠したところで何の意味もない。
「たぶん……あいつも、俺のことを好きだった」
「そう確信していたのか?」
カインは言葉では答えず、小さく頷いた。
疑ったことなどなかった。
ミモザが自分を見る目も、二人きりになったときに見せる表情も、幼い頃から積み重ねてきた時間も、そのすべてが同じ気持ちなのだと伝えていた。
「明日はミモザの十六歳の誕生日だ。パーティーにも呼ばれてる」
そこまで口にすると、声が僅かに掠れた。
「今日だって、そのために森へ行ったんだ」
「森へ?」
「ミモザに贈る花を取りに行った。宝石花だよ」
遺跡の片隅で見つけた、一輪の花が脳裏に浮かぶ。
本当なら、明日ミモザへ渡すはずだった。
「……プロポーズするつもりだった」
アルバトラはすぐには何も言わなかった。
しばらく息子を見つめたあと、深く息を吐き、眉間へ皺を寄せる。
「なんと愚かな」
「……は?」
思わず顔を上げた。
「お前とミモザ王女が結婚できるはずがないだろう」
あまりにも予想外の言葉で、カインは一瞬その意味を理解できなかった。
「なんでだよ」
「第三王女殿下はいずれ、外交上必要とあらば他国へ嫁がれる身だ。王女という立場がどういうものか、お前も理解しているはずだろう」
「でも――」
「それだけではない。お前はグレゴリー公爵家の嫡男であり、何よりツガイ主だ」
反論しかけた言葉を塞ぐように、アルバトラは続けた。
「お前にツガイ伴が存在する以上、王家がお前と王女殿下との婚姻を認めることはまずない。少なくとも、お前たちが互いの感情だけで将来を約束できる関係ではなかった」
何も言い返せなかった。
それまで胸の中にあった怒りとは別の、重く冷たいものがゆっくりと沈んでいく。
「……そうだったのか」
ようやく漏れた声には、自分でも嫌になるほど力がなかった。
「じゃあ俺……ずっと、無駄なことばっかしてたんだな」
ミモザの好きな茶葉を覚えた。
王女の隣に立っても恥をかかせないよう、嫌いだったダンスも何度となく練習した。礼法を学び、食事の作法を身につけ、女性をどうエスコートすればいいのかまで覚えた。
その練習には、何度もミッケを付き合わせた。
いつかミモザの隣へ立つ日のためだと、本気で信じていたからだ。
「無駄だったとは言わん」
アルバトラの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そこで身につけたものまで失われるわけではない。それに、ミモザ王女へ抱いていた気持ちも、お前にとっては本物だったのだろう」
慰められたはずなのに、その言葉はかえって胸に刺さった。
好きだった。
今さら、それまでの気持ちが偽物だったことになどできない。
けれど同時に、意識を失って眠っているミッケの顔が頭から離れない自分もいた。
「だが、王女もお前を好いていると、そう確信していたのだな?」
カインはもう一度、黙って頷いた。
それを見たアルバトラの表情から、父親としての色が薄れていく。
代わりに現れたのは、一つの公爵家を預かる者として何かを判断する顔だった。
「ならば、なおさら早く伝えなければならん」
「何を?」
「お前のツガイ伴が見つかったことをだ」
カインは顔を上げた。
「……いつ?」
「明後日だ」
「明後日?」
「明日は王女殿下の十六歳の誕生日だろう。その日にこの話を持ち込む必要はない。だが、それ以上引き延ばすわけにもいかん。明後日のうちに面会できるよう、私から王家へ連絡を入れておく」
「待てよ!」
堪えきれず、カインは勢いよくソファーから立ち上がった。
「そんな急に言えるわけねぇだろ!」
明日は、ずっと待ち望んでいたミモザの誕生日だった。本来なら宝石花を渡し、自分の気持ちを告げるはずだった日だ。
その翌日に、今度は別の女が自分のツガイ伴だったと告げなければならない。
頭では早く伝えるべきなのだと分かっても、気持ちが追いつくはずもなかった。
「急に?」
アルバトラは立ち上がった息子を見上げても、少しも動じなかった。
「カイン。お前はまだ、自分が置かれている状況を理解していないようだな」
「何がだよ」
「ツガイは、単なる恋愛の問題ではない」
その声音から、先ほどまで僅かに残っていた父親としての柔らかさが消えた。
「この国には、ツガイだけを対象とした『ツガイ法』まで存在する。それほど国家にとって重要なものだ」
「ツガイ……法?」
「ああ」
アルバトラは静かに頷いた。
「お前がこれまで誰を好きだったのかも、ミケリア嬢が今回のことをどう受け止めるのかも、もちろん無視していい問題ではない。だが、ツガイが覚醒した以上、国として必要な手続きが始まる」
カインは眉を寄せたまま、父を見つめた。
その胸には、つい先ほどまで知らなかった事実が次々と積み重なっている。
八年前から決まっていたツガイ伴。
叶うはずがなかったミモザとの未来。
そして、自分たちの知らないところで存在していたというツガイ法。
アルバトラは、そんな息子へ現実を突きつけるように続けた。
「ツガイが覚醒した時点で、もうお前とミケリア嬢だけの問題ではないんだ」




