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アートランティス王国の奇跡の年  作者: 無月公主


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13/42

13.はじまりは8歳の頃だった

 そこは、グレゴリー公爵アルバトラの書斎だった。


 壁一面を覆う書棚には分厚い書物が隙間なく並び、部屋の中央に据えられた重厚な執務机には、処理を待つ書類が几帳面に積み重ねられている。カインにとっては、幼い頃から何度も呼び出され、叱責や説教を受けてきた馴染み深い場所だった。


 向かいに立つアルバトラは、息子と同じく大柄で、年齢を重ねても衰えを感じさせない体躯をしていた。けれど顔立ちはカインとそれほど似ておらず、鋭い眼差しと落ち着いた佇まいには、長く公爵家を率いてきた者らしい威圧感がある。


 普段なら、この部屋へ入るだけで多少なりとも身構える。けれど今は、そんなことを気にしている余裕などなかった。


 風呂を済ませ、雨に濡れた制服から着替えても、胸の奥に燻る苛立ちは少しも収まっていない。


 父に促されるまま応接用のソファーへ腰を下ろしたものの、背もたれへ身体を預ける気にはなれず、カインは前屈みになったまま、向かいに座るアルバトラを睨むように見つめた。


「それで……いつから気づいてたんだよ」


 低く問いかけると、アルバトラは息子の険しい顔をしばらく眺めたあと、諦めたように小さく息を吐いた。


「お前たちが八歳の頃だ」


「……八歳?」


「ああ。覚えているか? お前がミケリア嬢をこっそり屋敷へ連れ込んだ日のことを」


 その言葉に、ずいぶん昔の記憶が蘇った。


 アカデミーでミッケと知り合って、まだそれほど時間が経っていなかった頃だ。遊びの延長で屋敷まで連れてきたものの、二人とも泥だらけの格好で玄関を通ろうとして、父にひどく叱られた。


「……平民を勝手に家へ連れてくるなって怒られた日か」


「そうだ。もっとも、あまりにも泥だらけだったからな。そのまま帰せば今度は先方の親御殿に申し訳が立たん。屋敷を汚されても困るから、風呂へ入って着替えてから帰るよう言った」


 アルバトラは当時を思い返すように目を細めた。


「その後だ。ミケリア嬢の世話をしていたメイドが、血相を変えて私のところへ飛び込んできた」


 その口調に、カインの眉が寄った。


「何があった?」


「首の後ろに、紋があるとな」


 その一言で、森での出来事が脳裏に蘇る。


 崩れた塀からミッケが落ちてきたとき、自分の左手の甲が偶然触れた場所。後頭部に近い、髪に隠れた首の後ろだった。


「場所が悪くてな。後頭部に近いうえ、普段は髪に半分ほど隠れていたらしい。普通に生活しているだけなら、まず気づかんだろう。だが入浴のために髪を上げたことで、はっきり見えたそうだ」


 そこでアルバトラは言葉を区切り、カインの左手へ視線を落とした。


「お前のものと対になる、ツガイ紋だった」


「……なんだよ、それ」


 喉の奥から出た声が、自分でも分かるほど低くなった。


「じゃあ、本当に……八歳の頃から分かってたのか?」


「ああ」


「だったら、なんで……」


 胸の奥に溜まっていたものが堪えきれず、カインは身を乗り出した。


「なんで俺に言わなかったんだよ!」


 怒鳴り声が静かな書斎へ響いた。


 けれど、アルバトラは顔色一つ変えなかった。


「まだ覚醒させるわけにはいかなかったからだ」


「何?」


「ツガイ主とツガイ伴は、互いの紋が触れれば覚醒する。まだ八歳だったお前たちに、その状態を引き起こさせるわけにはいかんだろう」


 あまりにも当然のこととして返され、カインは一瞬言葉に詰まった。


「だから、お前にはそれまで通り左手の手袋を外さないよう言いつけ、ミケリア嬢についてはこちらで静かに見守ることにした。いずれお前が十六歳を迎えれば、正式に事情を話すつもりだった。そこまで待てば済む話だったからな」


「済む話って……」


 納得できるはずがない。


 しかしアルバトラは、息子の不満を理解したうえでなお判断を変える気はないらしく、わずかに眉を上げた。


「逆に聞こう。お前は今まで、一度も不思議に思わなかったのか?」


「何がだよ」


「平民の娘が、なぜ公爵家へあれほど自由に出入りできたと思っている」


 カインは口を閉ざした。


「遊びに来れば専用同然の部屋まで用意され、長期休暇には何日滞在しても誰も咎めない。王女殿下と親しくなったとはいえ、王城への出入りまで認められ、高位貴族が集う場へ顔を出すことも黙認されていた。普通の平民の子どもに与えられる待遇ではない」


 父の言葉を聞くうちに、これまで何の疑問も抱かなかった光景が、一つずつ違う意味を持ちはじめた。


 ミッケが泊まりに来るたび、当たり前のように用意されていた部屋。


 公爵家の使用人たちも、最初こそ平民の子どもとして距離を取っていたはずなのに、いつの間にか彼女が屋敷を歩き回っていても誰も咎めなくなった。


 あまりにも自然だったから、考えたことすらなかった。


「……友達だったから」


「何?」


「俺の友達だし……みんな、ミッケに優しくしてくれてるんだと思ってた」


「優しさ、か」


 アルバトラは呆れたように息を吐いたが、その口元には僅かな苦笑も浮かんでいた。


「お前は身体ばかり随分と大きくなったが、中身はまだまだ子どもだな」


「うるせぇ」


「どれだけ礼法を覚え、剣を学び、貴族としての教養を身につけようとも、そういうところは昔から変わっていない」


 いつもなら、もっと食ってかかっていただろう。


 けれど今は、そんな気力さえ湧かなかった。


 八歳の頃から、大人たちは知っていたのだ。


 父も、母も、屋敷の使用人たちも、ミッケが自分のツガイ伴だということを知ったうえで、二人を見守っていた。


 何も知らされずにいたのは、自分とミッケだけだった。


「……気づいてたんなら、教えろよ」


 俯いたまま、カインは絞り出すように呟いた。


「教えてくれてたら……あんなことにはならなかった」


「あんなこと?」


 父に問い返されても、すぐには答えられなかった。


 真っ先に浮かんだのは、ミモザの顔だった。


 明日で十六歳になる少女。


 ずっと好きだった。


 ミモザが笑えば自分まで嬉しくなり、他の男と親しげに話していれば面白くなかった。王女だからでも、美しいからでもなく、ミモザだからこそ隣にいたいと思っていた。


「……俺は、第三王女殿下に恋をしてた」


 その告白に、アルバトラの表情が僅かに変わった。


「ミモザ王女に?」


「ああ」


 今さら隠したところで何の意味もない。


「たぶん……あいつも、俺のことを好きだった」


「そう確信していたのか?」


 カインは言葉では答えず、小さく頷いた。


 疑ったことなどなかった。


 ミモザが自分を見る目も、二人きりになったときに見せる表情も、幼い頃から積み重ねてきた時間も、そのすべてが同じ気持ちなのだと伝えていた。


「明日はミモザの十六歳の誕生日だ。パーティーにも呼ばれてる」


 そこまで口にすると、声が僅かに掠れた。


「今日だって、そのために森へ行ったんだ」


「森へ?」


「ミモザに贈る花を取りに行った。宝石花だよ」


 遺跡の片隅で見つけた、一輪の花が脳裏に浮かぶ。


 本当なら、明日ミモザへ渡すはずだった。


「……プロポーズするつもりだった」


 アルバトラはすぐには何も言わなかった。


 しばらく息子を見つめたあと、深く息を吐き、眉間へ皺を寄せる。


「なんと愚かな」


「……は?」


 思わず顔を上げた。


「お前とミモザ王女が結婚できるはずがないだろう」


 あまりにも予想外の言葉で、カインは一瞬その意味を理解できなかった。


「なんでだよ」


「第三王女殿下はいずれ、外交上必要とあらば他国へ嫁がれる身だ。王女という立場がどういうものか、お前も理解しているはずだろう」


「でも――」


「それだけではない。お前はグレゴリー公爵家の嫡男であり、何よりツガイ主だ」


 反論しかけた言葉を塞ぐように、アルバトラは続けた。


「お前にツガイ伴が存在する以上、王家がお前と王女殿下との婚姻を認めることはまずない。少なくとも、お前たちが互いの感情だけで将来を約束できる関係ではなかった」


 何も言い返せなかった。


 それまで胸の中にあった怒りとは別の、重く冷たいものがゆっくりと沈んでいく。


「……そうだったのか」


 ようやく漏れた声には、自分でも嫌になるほど力がなかった。


「じゃあ俺……ずっと、無駄なことばっかしてたんだな」


 ミモザの好きな茶葉を覚えた。


 王女の隣に立っても恥をかかせないよう、嫌いだったダンスも何度となく練習した。礼法を学び、食事の作法を身につけ、女性をどうエスコートすればいいのかまで覚えた。


 その練習には、何度もミッケを付き合わせた。


 いつかミモザの隣へ立つ日のためだと、本気で信じていたからだ。


「無駄だったとは言わん」


 アルバトラの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「そこで身につけたものまで失われるわけではない。それに、ミモザ王女へ抱いていた気持ちも、お前にとっては本物だったのだろう」


 慰められたはずなのに、その言葉はかえって胸に刺さった。


 好きだった。


 今さら、それまでの気持ちが偽物だったことになどできない。


 けれど同時に、意識を失って眠っているミッケの顔が頭から離れない自分もいた。


「だが、王女もお前を好いていると、そう確信していたのだな?」


 カインはもう一度、黙って頷いた。


 それを見たアルバトラの表情から、父親としての色が薄れていく。


 代わりに現れたのは、一つの公爵家を預かる者として何かを判断する顔だった。


「ならば、なおさら早く伝えなければならん」


「何を?」


「お前のツガイ伴が見つかったことをだ」


 カインは顔を上げた。


「……いつ?」


「明後日だ」


「明後日?」


「明日は王女殿下の十六歳の誕生日だろう。その日にこの話を持ち込む必要はない。だが、それ以上引き延ばすわけにもいかん。明後日のうちに面会できるよう、私から王家へ連絡を入れておく」


「待てよ!」


 堪えきれず、カインは勢いよくソファーから立ち上がった。


「そんな急に言えるわけねぇだろ!」


 明日は、ずっと待ち望んでいたミモザの誕生日だった。本来なら宝石花を渡し、自分の気持ちを告げるはずだった日だ。


 その翌日に、今度は別の女が自分のツガイ伴だったと告げなければならない。


 頭では早く伝えるべきなのだと分かっても、気持ちが追いつくはずもなかった。


「急に?」


 アルバトラは立ち上がった息子を見上げても、少しも動じなかった。


「カイン。お前はまだ、自分が置かれている状況を理解していないようだな」


「何がだよ」


「ツガイは、単なる恋愛の問題ではない」


 その声音から、先ほどまで僅かに残っていた父親としての柔らかさが消えた。


「この国には、ツガイだけを対象とした『ツガイ法』まで存在する。それほど国家にとって重要なものだ」


「ツガイ……法?」


「ああ」


 アルバトラは静かに頷いた。


「お前がこれまで誰を好きだったのかも、ミケリア嬢が今回のことをどう受け止めるのかも、もちろん無視していい問題ではない。だが、ツガイが覚醒した以上、国として必要な手続きが始まる」


 カインは眉を寄せたまま、父を見つめた。


 その胸には、つい先ほどまで知らなかった事実が次々と積み重なっている。


 八年前から決まっていたツガイ伴。


 叶うはずがなかったミモザとの未来。


 そして、自分たちの知らないところで存在していたというツガイ法。


 アルバトラは、そんな息子へ現実を突きつけるように続けた。


「ツガイが覚醒した時点で、もうお前とミケリア嬢だけの問題ではないんだ」

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