14.ごめんな、さようなら
ミケリアが森から運び込まれた翌日、カインはほとんど一日中、彼女の部屋から離れなかった。
医師から命に別状はないと聞かされても、不安は少しも消えてくれない。高い熱に浮かされながら眠り続ける顔を見ていると、ほんのわずか目を離した隙に何かが起きるのではないかという、根拠のない焦燥が胸の奥へまとわりついてくる。
寝台の脇へ椅子を置き、そこへ腰を下ろしたまま、カインは何時間もミケリアを見守り続けた。
時折、額の布を替えたり薬や水を用意したりするためにメイドが出入りする。そのたびに身体をずらして場所を空けはしたものの、部屋そのものから出ていこうとは一度も思わなかった。
以前の自分なら、こんなことはしなかっただろう。
ミッケは昔から大切な友人だった。馬鹿なことを始めれば止めたし、怪我をすれば心配もした。危ないところへ行こうとすれば文句を言いながら付き合い、困っていれば助けることだって当たり前だった。
けれど、今胸の中を占めているものは、そんな言葉では到底収まらない。
好きだと口にするだけでは足りず、愛していると言葉にしてみても、なお薄っぺらく感じられてしまう。
自分の頭を開いて、その中にあるものをすべて見せてやれるなら、そうしたかった。
そうすれば、この感情が覚醒によって突然植えつけられた偽物などではなく、確かに自分自身の中から湧き上がっているものなのだと、少しは伝えられるような気がした。
なぜ、これほどまでにミケリアが愛しいのか。
不思議なことに、その答えは自分の中にだけは確かに存在している。
森で覚醒するまで、こんな感情を抱いていると自覚したことなど一度もなかった。それなのに今は、ミケリアという存在を初めて知ったのではなく、ずっと昔から知っていたものをようやく取り戻したような感覚がある。
こいつでなければならない。
他の誰でも意味がない。
そんな確信が、理屈よりもはるかに明瞭な形で胸の奥に根を下ろしていた。
ところが、それを他人へ説明しようとすると、途端に言葉が見つからなくなる。どれだけ考えても、この感覚を正しく表現できる言葉へ辿り着けない。
自分にとっては疑いようもないほど確かなものなのに、それを誰かへ差し出そうとした瞬間、形を失ってしまう。
それが、ひどくもどかしかった。
そして何より残酷だったのは、あれほど大切だったはずのミモザへの恋さえ、今の感情と並べてしまえば、あまりにも小さなものに見えてしまうことだった。
ミモザへの気持ちが嘘だったわけではない。
間違いなく好きだったし、いつか一緒になりたいと本気で願っていた。彼女のために礼法を学び、好きな茶葉を覚え、紅茶の淹れ方を何度も練習した。嫌いだったダンスにも付き合い、王女の隣へ立って恥をかかせないよう、自分なりに努力してきた。
その時間も、そのとき抱いていた気持ちも、今なお鮮明に覚えている。
それなのに今は、眠っているミケリアの指先がほんの少し動いただけで、そちらへ意識のすべてを奪われてしまう。
額に浮かんだ汗ひとつ、呼吸のわずかな変化ひとつが、何よりも重要だった。
その日の夜、本来なら王城ではミモザの十六歳を祝う華やかな宴が開かれているはずだった。
もちろんカインも招待されていた。
今日が何の日なのか忘れたわけではない。
行かなければならないとも思った。今頃ミモザが自分を待っているだろうことも分かっていたし、約束もなく姿を見せなければ、どれほど傷つけることになるのかも想像できた。
それでも、眠り続けるミケリアを残してこの部屋を出ることだけは、どうしてもできなかった。
何度か立ち上がろうとはした。
けれど、そのたびに寝台へ視線が戻り、結局また椅子へ腰を下ろした。
そうして夜は更けていき、ミモザの十六歳の誕生日は終わった。
宴の会場で彼女はどれほど自分を待ったのだろう。
人が入ってくるたび、何度扉を振り返ったのだろう。
その姿を思い浮かべれば、胸が痛まないわけではなかった。それでもカインの手は、眠るミケリアの手を最後まで離すことができなかった。
そして、その翌日。
鏡に映った自分の顔を見て、カインは我ながら酷い有様だと思った。
公爵家の嫡男として恥ずかしくない正装に袖を通し、髪も使用人の手によって綺麗に整えられている。それなのに顔色だけは死人のように青く、目の下には薄く疲労の色まで浮かんでいた。
昨夜もほとんど眠っていないのだから、当然だった。
父アルバトラが王家へ申し入れ、用意した面会の場は、王城の一角にある小さな客間だった。
大勢の前で話すような内容ではないため、室内に控えている使用人も必要最低限に抑えられている。少し離れた場所には双方の家の者も待機していたが、少なくとも普通の声で話している限り、会話までは聞こえない程度の距離が取られていた。
やがて扉が開き、ミモザが姿を現した。
昨日の宴で纏っていたであろう華やかなドレスとは違い、今日は王女としての品位を損なわない程度に落ち着いた昼用の装いを身につけている。
けれど、どれだけ綺麗に身支度を整えていても、顔を見れば分かってしまった。
目元が、僅かに腫れている。
きっと泣いたのだろう。
以前の自分なら、それを見ただけで胸を締めつけられ、何があったのかと真っ先に駆け寄っていたはずだった。
今だって申し訳ないとは思う。
自分を待っていた彼女を傷つけたことへの罪悪感も、確かに胸の中にある。
けれど、それ以上のものは湧いてこなかった。
「ミモザ……」
名前を呼ぶと、彼女はほんの少し困ったような顔をしたあと、それでもいつものように笑おうとした。
その無理をして作られた笑顔を見ながら、カインは静かに頭を下げた。
「誕生日……祝えなくて、ごめんな」
「そんなこと、気にしなくていいのよ」
ミモザは一瞬驚いたものの、すぐに首を横へ振った。
声はいつもと変わらず優しかった。
「きっと何かあったのでしょう? カインが何の理由もなく来ないなんて思ってないわ。またミッケと一緒に、何か無茶でもしたの?」
何気なく口にされた名前に、カインは僅かに目を伏せた。
以前なら、そのまま適当に笑って誤魔化し、二人でいつもの調子へ戻れたのかもしれない。
けれど、今日はそのためにここへ来たのではない。
「……違う」
「え?」
カインはゆっくりと首を横へ振ったあと、逃げずにミモザの顔を見た。
「ミモザ。話さなきゃいけないことがある」
それまで保たれていた彼女の笑顔が、僅かに強張った。
何かを感じ取ったのだろう。
その変化を見つめながら、カインは一度深く息を吸った。
「俺の……ツガイ伴が見つかった」
一瞬、ミモザの表情からすべてが消えた。
聞こえていなかったわけではない。ただ、その言葉が持つ意味を受け入れるまでに、少し時間が必要だったのだろう。
やがて大きな緑の瞳が揺れ始め、かすかに開いた唇も震えた。
「……そう」
それだけの言葉を絞り出すことさえ、ひどく苦しそうだった。
ミモザは王女であり、高位貴族の中でも最も深く国家制度について学ぶ立場にいる。ツガイ伴が見つかったという言葉が何を意味するのか、分からないはずがなかった。
「そう……なのね」
今にも泣きそうな顔だった。
カインはその表情をじっと見つめた。
かつて確かに愛した少女が、目の前で自分の言葉に傷ついている。
申し訳なかった。
自分を待たせたことも、何も知らないまま期待させ続けたことも、本当に悪かったと思う。
それでも、慰めるために抱き締めたいという衝動は生まれなかった。もう一度やり直せないだろうかと考えることもない。
もし今、同じ顔をして泣いているのがミケリアだったなら、考えるより先に身体が動いていただろう。
その違いを自覚してしまうことが、ミモザに対して何よりも残酷だった。
「……誰だったの?」
しばらくして、ミモザが尋ねた。
掠れた声だった。
「私も……知っている人?」
カインは僅かに黙り込んだ。
けれど、ここまで来て隠したところで何の意味もない。
「……ミッケだった」
「え?」
「ミケリアが、俺のツガイ伴だった」
ミモザの目が大きく見開かれた。
「ミッケ……?」
信じられないというように何度か瞬きを繰り返し、その顔に浮かんでいた悲しみが、次第に困惑へ変わっていく。
「でも……ミッケは平民でしょう?」
その一言に、カインの眉が僅かに動いた。
ミモザ自身も、自分が何を口にしたのか気づいていないのかもしれない。傷つき、混乱した末に出た言葉なのだということくらいは理解できた。
それでも、続く言葉を聞き流すことはできなかった。
「グレゴリー公爵家の嫡男と平民なんて、釣り合うはずがないじゃない。カインは公爵家を継ぐ人なのよ? いくらツガイだって、それなら――」
「ミモザ」
低い声で名前を呼ぶと、彼女ははっと口を閉ざした。
先ほどまで申し訳なさそうに歪んでいたカインの表情から、僅かに温度が失われていた。
「それ以上、ミケリアを悪く言うな」
「……カイン?」
「平民だから何だ」
怒鳴ったわけではない。
それでも声に滲んだ硬さを感じ取ったのか、ミモザの肩が僅かに強張る。
「俺にとって、ミケリアが何者かなんて、身分とは何の関係もない」
「でも、私は……」
「分かってる」
カインはそこで一度言葉を止めた。
目の前にいるのは、ほんの数日前まで本気で好きだった少女だった。
泣かせたいわけではない。
まして、傷つけることを望んでいたわけでもない。
だからこそ、自分が悪かった部分についてだけは、曖昧にしたくなかった。
「俺が悪い」
姿勢を正し、今度ははっきりと頭を下げた。
「俺は本当にお前が好きだった。それなのに、何も知らないまま期待させて、誕生日にも行かず、理由すら説明しなかった。お前を傷つけたことは、俺の責任だ。本当に……ごめん」
「だったら……」
頭上から聞こえてきたミモザの声が震えていた。
「だったら、まだ――」
「でも」
その先を言わせる前に、カインは顔を上げた。
「もう、戻れない」
ミモザの顔から、さっと血の気が引いた。
「俺はミケリアを選ぶ」
「選ぶって……ツガイだからでしょう?」
縋るように向けられた問いに、カインは首を横へ振った。
「それだけじゃない」
なぜそう言い切れるのか、自分には分かっていた。
ただ、その理由をミモザに理解できる形で説明することだけが、どうしてもできない。
「俺自身が、ミケリアを愛してる」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「だって、一昨日まで……!」
とうとう抑えきれなくなった声が大きくなった。
カインも、その言葉を否定しようとはしなかった。
「分かってる。俺だって、こんなふうになるなんて思ってなかった」
ミモザを見つめる表情が、初めて苦しげに歪む。
「お前を好きだったことも嘘じゃない。あの気持ちは本物だったし、なかったことにするつもりもない。だからこそ、お前にとって今の俺が納得できないことも分かってる」
ほんの数日前まで、彼女との未来を願っていた。
その事実を否定することなどできない。
それでも、今の自分の心が向いている場所だけは、もう変えられなかった。
「でも……今の俺が一番大事なのは、ミケリアなんだ」
ミモザの瞳に溜まっていた涙が、とうとう頬を伝った。
その姿を見ながら、カインは膝の上で拳を強く握り締めた。
以前なら、その涙を見ることには耐えられなかっただろう。
すぐに手を伸ばし、泣かないでくれと言ったかもしれない。
けれど今は、そんな慰め方をすることこそ、彼女に対して残酷なのだと思えた。
「……それと、もう一つ」
カインの声音が静かに変わった。
「今後、俺と二人きりで会うことはできない」
「え……?」
ミモザが呆然と顔を上げた。
「どうして?」
「ツガイ伴が見つかった以上、以前と同じ関係を続けるつもりはない。それに、俺が中途半端なことをすれば、ミケリアにも、お前にも余計な傷を増やすだけだ」
「そんな……」
ミモザは信じられないものを見るように首を振った。
「私たち、ずっと友達だったじゃない」
その言葉に、カインも一瞬だけ目を伏せた。
三人で笑った時間まで、消えてしまったわけではない。
アカデミーの庭を走り回ったことも、一緒に叱られたことも、くだらないことで笑った日々も、今でも大切な記憶として残っている。
だからこそ、今までと同じ距離に戻れるふりをしてはいけないと思った。
曖昧な優しさを残せば、きっと誰かがもっと傷つく。
そう考えて顔を上げたとき、カインはもう幼馴染へ向ける口調では話さなかった。
グレゴリー公爵家の嫡男として姿勢を正し、王女に対する正式な礼を取る。
「今まで、ありがとうございました。第三王女殿下」
「……カイン?」
「あなたを傷つけたことについては、どれだけ謝っても足りないと思っています。何も知らなかったとはいえ、結果として期待させ続けてしまったことも、誕生日に姿を見せなかったことも、本当に申し訳ありませんでした」
それまで必死に堪えていたミモザの表情が、とうとう大きく歪んだ。
「そんな話し方……やめてよ」
カインは答えなかった。
ここでまた「ミモザ」と呼び、以前と同じように接してしまえば、自分が今言ったことすべてを曖昧にしてしまう。
だから深く一礼し、そのまま踵を返した。
「待って」
背後から震える声が追いかけてきた。
足を止めることなく、扉へ向かって歩く。
「カイン、待って!」
声が近づいた気がしたが、振り返らなかった。
「お願い……待ってよ!」
とうとう抑えきれなくなった悲鳴が、静かな客間へ響き渡る。
「待って――! カイン!!」
それでもカインは振り返らず、その声を背中に受けたまま、客間を後にした。




