15.止められない運命
王城を出ると、雨が降っていた。
面会のため城へ入ったときには、空こそ厚い雲に覆われていたものの、まだ雨の気配まではなかったはずだ。それが今では細かな雨粒が石畳を濡らし、よく手入れされた庭園の木々や色鮮やかな花々まで、薄い灰色の幕の向こうへ沈めている。
軒下で足を止めたカインは、しばらく黙ったまま空を見上げた。
脳裏に浮かぶのは、つい先ほどまで目の前で泣いていたミモザの姿だった。涙に濡れた鮮やかな緑の瞳と、最後まで自分を呼び止めていた声が、まだ耳の奥に残っている。
「あぁ……すげぇな。神の末裔の力……か?」
誰に聞かせるでもなく、そんな言葉が口から零れた。
アートランティス王家には、神の血が流れている。
王族の感情が天候へ影響を及ぼすなどという話を、カインは正式な学問として教わった覚えはない。だから、この雨がミモザの涙と何か関係しているのかと問われても、確かなことなど何も分からなかった。
そうなのかもしれないし、ただの偶然なのかもしれない。
それ以上考えることはせず、カインは迎えに来ていた馬車へ乗り込んだ。
車輪が濡れた石畳を進み、屋根を叩く雨音が絶え間なく響いている。その音を聞きながら揺られていても、先ほど自分が下した決断をやり直したいとは思わなかった。
ミモザを傷つけたことへの罪悪感は、確かに残っている。彼女へ抱いていた想いも、二人で過ごしてきた時間も、今さら偽物だったことにするつもりはなかった。
けれど、戻りたいとは思わない。
そのことだけは、もう揺らがなかった。
グレゴリー公爵邸へ到着すると、カインは玄関へ足を踏み入れるなり正装の上着を脱いだ。受け取ろうと近づいてきた従者へそれを預け、そのまま迷うことなく二階へ向かう。
どこへ行きたいのかなど、考えるまでもなかった。
ミケリアの部屋だった。
扉を静かに開けると、薄く落とされた室内の灯りの中、ミケリアはまだ眠り続けていた。
熱は昨日より下がっていると聞かされていたものの、頬にはまだ赤みが残り、普段よりも浅い呼吸を繰り返している。額には新しい濡れ布が置かれ、意識が戻った様子はない。
カインは寝台の脇へ腰を下ろすと、布団から出ていた彼女の手をそっと取った。
掌へ伝わってくる体温を確かめるだけで、王城にいるあいだ張りつめていたものが僅かに緩んでいく。
ちゃんとここにいる。
息をしている。
その当たり前の事実が、今のカインには何よりも大切だった。
「……終わらせてきた」
眠っている相手から返事が返ってくるはずもない。それでもカインは握った手へ視線を落としたまま、静かに言葉を続けた。
「ちゃんと謝った。もう、あいつに中途半端な期待を持たせることもしない」
ミモザと過ごした時間を忘れたいわけではなかった。好きだったことも、いつか一緒になれればと願ったことも、自分がこれまで生きてきた時間の一部であることに変わりはない。
ただ、これから自分が向き合う相手だけは、もう決まっていた。
カインは眠るミケリアの指を包み込むように、手を握り直した。
「これからは……俺が持ってるもの全部、お前にやるよ」
好きだという言葉だけでは足りない。愛していると告げても、胸の中に溢れている感情のほんの一部しか伝えられないような気がする。
それでも、いつかミケリアが目を覚ましたなら、自分の言葉で何度でも伝えようと思った。
「俺が全力で、お前を愛すから」
そのとき、背後で静かに扉が開いた。
「カイン、帰っていたか」
聞き慣れた父の声に振り返る。
アルバトラは室内へ一歩入ったところで、寝台の脇に座る息子と、その手に包まれているミケリアの手へ目を向けた。何か思うところがあったのか僅かに目を細めたものの、それについて口を挟むことはなかった。
「話がある」
短くそう告げると、先に廊下へ戻っていく。
カインはすぐには立ち上がらず、握っていたミケリアの手を名残惜しそうに見つめたあと、そっと寝具の上へ戻した。
「……すぐ戻る」
眠る彼女へ小さく言い残し、父の後を追った。
再び足を踏み入れたアルバトラの書斎は、二日前と何も変わっていなかった。
壁一面に並ぶ書物も、整然と積まれた書類もそのままだというのに、カイン自身を取り巻く状況だけが、ほんの数日でまるで別物になっている。
応接用のソファーへ腰を下ろすと、アルバトラは執務机に置かれていた書類を一枚手に取り、内容を確認しながら口を開いた。
「まず、ミケリア嬢のことだが、アカデミーの寮は解約しておいた」
「……は?」
あまりにも当然のこととして告げられ、カインは思わず父の顔を見た。
「今日中には、残っている荷物もすべてこちらへ運ばせる。本人が回復してから、自分で整理してもらえばいいだろう」
「ちょっと待てよ」
身体を前へ乗り出し、声を強める。
「ミケリアの同意もなしに、そんなことしていいのかよ」
「そんなこと?」
アルバトラは眉一つ動かさず、むしろ息子の反応を意外そうに見返した。
「お前は、まだ覚醒したツガイ伴という立場を甘く見ているようだな」
「だからって、勝手に住む場所まで決めていいわけじゃねぇだろ」
「では聞くが、覚醒したツガイ伴を、今まで通り学生寮へ一人で戻すつもりか?」
そう問い返され、カインはすぐには答えられなかった。
アカデミーの寮に警備がないわけではない。だが、公爵邸と同等の守りを期待できる場所ではないことくらい、カインにも分かる。
それでも、本人が眠っているあいだに住む場所まで取り上げてしまうことへ、素直に納得できるはずもなかった。
「これまでも、ミケリア嬢には本人へ悟られない形で護衛をつけていた」
「……護衛?」
思いもよらない言葉に、カインの眉間へ皺が寄った。
「ああ。お前のツガイ伴だと判明した八歳の頃からだ。常に付きまとわせていたわけではないが、王城への移動や遠出、高位貴族が集まる場へ出る際など、必要な場面では必ず目を配らせていた」
そんなことは、一度も聞かされたことがなかった。
もちろんミケリア本人も知らないだろう。もし知れば、自分の知らないところで八年間も見張られていたのかと、間違いなく腹を立てる。
「だが、今まではまだ覚醒前だった。ミケリア嬢がツガイ伴だという事実を知る者も、ごく限られていたからな」
そこでアルバトラの表情が僅かに険しくなった。
「これからは違う。正式に覚醒の届け出を出せば、いつまでも秘密にしておくことはできん」
「それで、なんでミッケが狙われるんだよ」
「お前を弱体化させるには、最も手っ取り早い存在だからだ」
静かに告げられた言葉が、妙に冷たく胸へ落ちた。
「グレゴリー公爵家の嫡男であり、ツガイ主として覚醒したお前へ正面から手を出すのは容易ではない。だが、伴ならどうだ。お前の力の根幹に関わっているうえ、これまでは平民として暮らしてきた少女だ。敵対する者から見れば、これ以上分かりやすい弱点もない」
カインの指が、無意識に強く握り込まれる。
「……ミッケを、人質にするってことか」
「人質で済めばまだいい」
アルバトラの声音に変化はなかった。
だからこそ、その先に続く言葉を聞くのが怖くなった。
「万が一、ツガイ伴が失われてみろ。お前自身がどうなるのかも、まだ完全には分かっていない。妖力への影響も、公爵家の軍事力への影響も未知数だ。何より、ツガイ伴を保護できなかったとなれば、王家から責任を問われることになる」
カインは唇を引き結んだ。
自分が罰せられることなど、どうでもいい。
公爵家の力が落ちると言われても、今はほとんど頭に入ってこなかった。
ただ、父が何気なく口にした『ツガイ伴が失われる』という言葉だけで、寝台に横たわるミケリアの姿が鮮明に浮かび、胸の奥を強く締めつけられた。
「……結局、家のためかよ」
低く漏らすと、アルバトラの眉が僅かに動いた。
「そう聞こえるか」
「俺がどうなるとか、公爵家の力がどうとか、王家から責任を問われるとか……そんな話ばっかじゃねぇか」
アルバトラはすぐには反論しなかった。
しばらく黙って息子を見つめたあと、静かに息を吐く。
「カイン。我々には、多くの同胞を守らねばならない義務がある」
「……分かってるよ」
「いや、分かっていない」
返ってきた声には、父親というより、一つの公爵家を率いる者としての厳しさが滲んでいた。
「ノブレス・オブリージュという言葉がある。その昔、神が人の上に立つ者へ説いた言葉だと伝えられている。力を持つ者、富を持つ者、地位を与えられた者には、それに見合う責任が伴うという意味だ」
「だから分かってるって!」
幼い頃から何度も聞かされてきた話を、この状況で改めて説かれたことに苛立ちが込み上げ、カインは思わず声を荒らげた。
「小さい頃から何回聞かされたと思ってんだよ!」
怒鳴り声が書斎へ響いたが、アルバトラは叱責することなく、息子の苛立ちが少し収まるのを待つように間を置いた。
「ならば覚えておけ。私がお前とミケリア嬢を守ろうとしているのは、公爵家の名誉や利益だけのためではない」
その言葉に、カインは口を閉ざした。
「お前たちが無事であり、グレゴリー家の力が保たれることで、この領地に暮らす多くの者たちの生活も守られる。それが、お前が生まれ持った立場だ」
すべてに納得できたわけではない。
眠っているミケリアへ何の相談もせず、寮を解約したことが正しいとも思えなかった。
それでも、父が単純に家門の利益だけを考えて動いているわけではないことくらいは理解できる。
アルバトラは息子の表情から、それ以上この話を続けても平行線になると判断したのか、机の上に置かれていた別の書類へ手を伸ばした。
「それと、もう一つある」
「まだあんのかよ」
うんざりしたように返したカインへ、アルバトラは淡々と続ける。
「ミケリア嬢の両親についてだ」
その瞬間、胸の奥に嫌な予感が広がった。
「……親がどうした?」
「二人には、今日のうちに引っ越してもらった」
「は?」
思わず父の顔を見返す。
「どこに?」
「グレゴリー公爵領内だ。こちらで用意した、安全を確保しやすい場所へ移ってもらった」
「待てよ。ミケリアが起きたら、家に帰るかもしれないだろ」
「だからこそ、今のうちに移した」
「本人に何も言わずにか?」
先ほどよりも強い苛立ちが声へ滲んだが、アルバトラは少しも動じなかった。
「覚醒した以上、後日正式な届け出を行えば、ミケリア嬢は公的にもお前のツガイ伴として扱われることになる」
アルバトラは手にしていた書類を置き、改めて息子へ向き直った。
「そうなれば狙われるのは本人だけではない。両親を攫い、脅しの材料として利用することもできる。ミケリア嬢本人を従わせようと考えれば、家族を利用するのが最も簡単だからな」
そこまで聞いて、カインの中にあった反発は消えないまでも、少しずつ別の感情へ形を変えていった。
ミケリア本人だけではない。
あいつが大切にしている家族まで、自分とのツガイが覚醒したというだけで危険に晒される。
その事実を初めて現実として理解し、声から勢いが失われていく。
「……そんなに、危険になるのか」
「ああ」
アルバトラは迷うことなく頷いた。
「ツガイとは、運命の相手を見つけて終わるような綺麗な話ではない。高位貴族の力へ直接関わる以上、政治にも軍事にも影響する。だからこそ国が管理し、法律まで定めている」
カインはしばらく何も答えられなかった。
ただ好きだ、愛していると言っているだけでは、ミケリアを守ることはできない。
父が言おうとしているのは、そういうことなのだろう。
「それに、お前たちは覚醒したばかりだ」
アルバトラは少し声音を落とし、そのまま説明を続けた。
「今のお前が妖力を十分に扱えないのと同じように、ミケリア嬢も突然開いた魔力経路をまだ制御できていない。これからは定期的に魔力供給を行い、互いの回路を馴染ませていく必要がある」
「魔力供給……」
「ああ。覚醒によって二人の回路は繋がったが、今はまだ不安定だ。供給を重ねれば魔力と妖力の流れは次第に安定し、双方の身体もそれに適応して強くなっていく」
そこでアルバトラは僅かに目を細めた。
「逆に、それを怠れば、いつまでも弱いままだ」
カインは無意識に、自分の左手へ視線を落とした。
森でミケリアの首の後ろへ触れた瞬間、全身を一気に満たした圧倒的な魔力と、それに呼応するように自分の奥から溢れ出した妖力。
あれと同じことを、これから何度も繰り返していく必要があるということなのだろう。
けれど、その事実を理解したとき、真っ先に浮かんだのは力を得られることへの期待ではなかった。
自分が眠っているあいだに寮を解約され、荷物を公爵家へ運び込まれ、さらには両親まで知らない土地へ移されている。
そのうえ、目を覚ました途端、今後は自分と定期的に魔力供給をしなければならないと知らされるのだ。
ミケリアがそれを聞いたとき、いったいどんな顔をするのだろう。
そのことを考えただけで、カインの胸には、先ほどとはまた違う重い不安が静かに沈んでいった。




