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アートランティス王国の奇跡の年  作者: 無月公主


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16/42

16.置き去りのままに進む時間

「お父さん……お母さん……どこに行っちゃったの……」


 返事のない家の中で、私の声だけが虚しく響いた。


 何度呼んでも、誰も答えてくれない。つい数日前まで確かに家族が暮らしていたはずなのに、室内には見慣れた家具がいくらか残されているだけで、生活の気配だけが綺麗に抜け落ちていた。母がいつも使っていた小物も、父の私物も見当たらず、棚や机の上は不自然なくらい片づいている。


 間違った家へ帰ってきたわけではない。ここは確かに私の家で、玄関も廊下も、幼い頃から見慣れたものばかりだ。


 それなのに、もう私の知っている家ではなかった。


「なんで……」


 頬を伝う涙を拭う気にもなれず、その場に立ち尽くした。


 アカデミーへ戻れば、ミモザに拒絶された。寮へ行けば、自分の荷物だけが綺麗になくなっていて、それなら家へ帰ればいいと思ったのに、その家からさえ、お父さんとお母さんが消えている。


 何が起こっているのか、誰も教えてくれない。


 森へ行く前までは、ちゃんとあったはずなのだ。友達も、学校も、帰る場所も、何も特別だと思わないくらい当たり前にそこにあった。


 それなのに、ほんの数日のあいだに、私の人生を支えていたものが一つずつ勝手に取り上げられていく。


「私……どこに帰ればいいの……?」


 口にした途端、それまで必死に押し込めていたものが一気に込み上げた。


 もう、どこにも私の居場所がない。


 そう思うだけで胸が苦しくなり、息を整えようとしても上手くいかない。堪えようとするほど涙は止まらなくなり、視界が滲んでいった。


 そのとき、静まり返った家の中へ、聞き慣れた声が飛び込んできた。


「ミッケ!!」


 驚いて振り返ると、開け放たれた扉の向こうにカインが立っていた。


「……カイン」


 どれほど走ってきたのだろう。銀灰色の髪は大きく乱れ、額から頬へ汗が伝っている。普段なら少しくらい走ったところで息一つ乱さない男が、肩を大きく上下させながら、確かめるように私を見つめていた。


 目が合った瞬間、張りつめていたカインの表情が明らかに緩んだ。


 けれど、その安堵も、私の泣き腫らした顔を見た途端に消えた。代わりに浮かんだのは、見ているこちらまで苦しくなるような痛ましい表情だった。


「ミッケ……」


 カインは迷うことなくこちらへ歩み寄ってきた。


 今は顔を見たくない。


 そう思って身体を背けようとしたものの、その前に背後から大きな腕が回り、逃げ場を失うように身体を包み込まれた。


「……っ」


 広い胸に背中が触れ、走ってきたばかりの熱が服越しに伝わってくる。


 以前なら、カインがこんなふうに私を抱き締めることなどなかった。


「ごめん……ごめんな、ミッケ」


 耳元へ落ちてきた声は、今まで聞いたことがないほど弱々しかった。


「俺が悪い。全部、俺のせいなんだ。お前まで巻き込んで……本当にごめん」


 抱き締める腕に少しだけ力がこもる。


「ミッケが傷つく必要なんてなかった。俺が全部背負うから……だから、そんな顔するなよ」


 必死なのだということは分かった。


 カインが私を苦しませたくてこんなことをしているわけではないことも、私なりに理解している。


 それでも、何一つ分からないまま、自分の人生だけが勝手に別の形へ作り替えられていく今、その言葉を素直に受け止められるほど気持ちは追いついていなかった。


「何が……起こってるの?」


 震える声で問いかけると、背後から回された腕が僅かに強張った。


「なんで寮から私の物がなくなってるの? なんでお父さんもお母さんもいないの?」


 答えを求めるように身体を捩り、カインの腕の中で振り返る。


「なんで全部……私の居場所、なくなってるの……?」


 カインはすぐには答えなかった。


 泣いている私の顔を見つめ、何度か言葉を探すように唇を動かしたあと、苦しげに眉を寄せる。


「……親父がやった」


「え?」


「寮のことも、お前の家族のことも……親父が手配した。俺も、あとから聞いたんだ」


 思いがけない答えに、頭の中が一瞬真っ白になった。


 カインはそんな私を見て、慌てるように言葉を継いだ。


「でも、お前を困らせるためじゃない。ミッケの安全を守るためなんだ。お前の両親も危ない目に遭ったわけじゃない。グレゴリー領の安全な場所に移ってもらってる」


「安全って……何から?」


 思わず問い返すと、カインは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 その短い躊躇いだけで、嫌な予感が胸の奥へ広がっていく。


「……ミッケはこれから、命を狙われるかもしれない」


「……は?」


 聞き間違いかと思った。


 けれどカインは視線を逸らさず、真剣な顔のまま私を見ていた。


「俺のツガイ伴として覚醒したからだ。俺はグレゴリー公爵家の跡取りで、覚醒した今は妖力も使える。だから、俺やグレゴリー家を弱らせたい奴にとって、お前は狙いやすい存在になる」


 説明するカインの声は重かった。


「それだけじゃない。ミッケ本人に手を出せなくても、家族を利用して脅すことだってできる。だから親父は、お前の両親も先に安全な場所へ移したんだ」


 まただ、と思った。


 ツガイだから。


 カインのツガイ伴だから。


 たったそれだけのことで、私の知らないところで住む場所を変えられ、両親まで別の場所へ移されて、そのうえ今度は命まで狙われるという。


 何も選んでいない。


 何も望んでいない。


 それなのに、私の人生だけが、私を置き去りにしたままどんどん先へ進んでいく。


「だから……俺のせいなんだ」


 カインの声がさらに低くなった。


「俺のせいで、お前までこんなことに巻き込まれた。だから俺が――」


「俺のせい、俺のせいって……!」


 胸の奥で張りつめていた何かが、とうとう弾けた。


 私はカインの腕を振りほどき、勢いよく振り返った。


「そんなこと言ったって、何の解決にもならないじゃない!!」


「ミッケ……」


「私、何にも知らなかったのに! 起きたら寮から荷物はなくなってるし、お父さんもお母さんもいなくなってるし、みんな私に何も聞かないで勝手に決めて……!」


 言葉にするほど、悔しさと怖さが込み上げてくる。


「カインが『俺のせい』って謝ったら、全部元に戻るの!? 私、今までみたいにアカデミーへ帰れるの!? お父さんとお母さんも、元の家に戻ってくるの!?」


「それは……」


「戻らないでしょう!?」


 カインが言葉を失った。


 何も言えなくなったその顔を見ることさえ苦しくなり、私は乱暴に涙を拭った。


「離して!」


「ミッケ、待て!」


 伸ばされた手を避けるように、私は家を飛び出した。


 どこへ向かうつもりなのか、自分でも分からない。ただ、あの何もなくなった家にも、今のカインの隣にも、これ以上いたくなかった。


「ミッケ!!」


 背後から呼び止める声が追いかけてくる。


 それでも足を止めず、涙で滲む道をひたすら走った。どこでもいいから遠くへ行きたい、その一心だった。


 けれど、通りへ飛び出して間もなく、耳慣れない声が前方から聞こえてきた。


「おんやぁ~?」


 妙に甘ったるく、場違いなくらい楽しげな声だった。


「ツガイ伴、みーっけ♡」


 思わず足が止まった。


 少し先の道に、一人の男が立っている。


 茶色い髪を片側へ大きく流し、黒と紫を基調とした華やかな貴族風の衣装を身に纏っていた。白いベストに細身のパンツを合わせ、随所へ施された金の装飾や鎖飾りが、気品の中にどこか芝居がかった派手さを滲ませている。


 目元は仮面に覆われており、素顔のすべてを窺うことはできない。


 それでも、露わになった口元には余裕に満ちた笑みが浮かび、手袋に包まれた手を軽く持ち上げる仕草ひとつにも、普通の貴族とは違う得体の知れなさがあった。


 美しい男だった。


 けれど、その姿に見惚れるより先に、背筋を這い上がるような嫌悪感が身体を強張らせた。


「……誰?」


 問いかけても、男は名乗ろうとはしなかった。


 仮面の奥からこちらを眺めるようにゆっくりと首を傾げ、楽しげに口元を吊り上げる。


「悪いけどぉ……ここで死んでもらうわぁん♡」


 その言葉の意味を理解した瞬間、血の気が引いた。


 逃げなければいけない。


 頭ではそう分かっているのに、身体が恐怖に縫い止められたように動かない。


 男がゆっくりこちらへ手を向ける。


 けれど、その指先が何かをするより早く、背後から激しい足音が迫ってきた。


「ミッケ!!!」


 次の瞬間、視界いっぱいにカインの背中が広がった。


 私と男のあいだへ割り込むように滑り込み、その大きな身体で完全に私を庇う。


「カイン……!」


 追いついたばかりで呼吸が乱れているはずなのに、カインは振り返らなかった。私が背後にいることだけを確かめるように僅かに片腕を広げ、目の前の男へ鋭い視線を向けている。


 仮面の男はそんなカインを見ても驚くどころか、むしろ面白いものを見つけたように笑みを深めた。


「あらぁ? ツガイ主まで来ちゃったの?」


 仮面の奥の視線が、値踏みするようにカインの全身をなぞる。


「でもぉ、覚醒したてのひよっこでしょう? こっちはプロよ」


 その言葉を聞いた瞬間、カインを取り巻く空気が変わった。


 森で覚醒したときにも感じた、身体の奥をざわつかせるような力の気配が、今度ははっきりと彼の全身から溢れ出していく。


 妖力だ。


 銀灰色の髪のあいだから獣の耳が姿を現し、カインの瞳にも、それまで以上に鋭い光が宿った。


 まだ覚醒してから数日しか経っていない。


 父親からも、妖力を十分に扱える状態ではないと言われているはずだ。それでもカインは一歩も退かず、私を完全に背後へ隠したまま、仮面の男を睨み据えていた。


「ひよっこでも何でもいい」


 普段よりも低い声が響く。


 カインは僅かに腰を落とし、いつ相手が動いても飛び出せるように身構えた。


 その背中に、迷いはなかった。


「死んでも守る」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に別の恐怖が広がった。


 ほんの少し前まで、カインから「これから命を狙われるかもしれない」と聞かされても、どこか現実味を持てずにいた。


 けれど今、目の前には私を殺すために現れた男がいて、その前ではカインが命を賭けると言って立ちはだかっている。


 ツガイ伴は、命を狙われる。


 それは遠い未来に起こるかもしれない話でも、大人たちが大袈裟に恐れているだけの危険でもなかった。


 私が知らないうちに、私の人生は本当に以前とは違う場所へ踏み込んでしまっていた。

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