17.死んでも守りたい
仮面の男は、カインの身体から立ち上る妖力を眺めるように首を傾げると、警戒するどころか、どこか面白がるように口元を緩めた。
「ふぅん……ちゃんと先祖返りはするのねぇ」
声音に滲んでいるのは驚きよりも興味だった。
男が片手を翻すと、どこに隠していたのか、次の瞬間には細長い鞭がその手に握られていた。黒い革を編み込んだそれを軽く振り、重さや癖を確かめるように手首を動かしてから、男はわずかに不満そうな顔をする。目元は仮面に隠されていたが、露わになった口元の動きだけでも、その感情は十分に読み取れた。
「うーん。扱いにくいわね、この武器」
ぼやきながら腕を振るうと、鋭い破裂音とともに鞭の先端が地面を叩き、小石が弾けるように飛び散った。
思わず肩を震わせた私とは対照的に、男はますます楽しそうに笑う。
「まぁ、いいわ。ワンちゃんを調教するには、ぴったりでしょう?」
その言葉が終わるより早く、鞭が空気を切り裂いた。
カインの身体が僅かに動いたのを見て、私はてっきり避けるのだと思った。
けれど、彼は私の前から一歩も退かなかった。
乾いた音が響き、鞭がカインの肩から胸元を斜めに打ち据える。
「ぐっ……!」
「カイン!!」
衝撃に身体を揺らしながらも、カインはどうにか踏みとどまった。痛みに顔を歪めているのに、私を背後へ隠す位置だけは崩そうとしない。
「避けて!!」
堪えきれず叫ぶと、カインは仮面の男から目を離さないまま、苛立ったように怒鳴り返した。
「避けたら、お前に当たるだろ!!」
「カイン……」
その一言で、ようやく分かった。
避けられないのではない。
避けようとしていないのだ。
自分が退けば、その後ろにいる私へ鞭が届く。だからカインは最初から、自分の身体で受け止めるつもりで立っている。
「あらぁ、健気ねぇ」
そんな様子さえ男にとっては愉快な見世物でしかないらしく、口元の笑みを深めながら再び鞭を持ち上げた。
「だったら、いつまで耐えられるか試してみましょうか?」
次の一撃がカインの腕を打ち、その直後には角度を変えた鞭が肩口へ食い込んだ。
カインは腕で顔を庇いながら、ただ耐え続ける。
鞭が振るわれるたび、耳に残るほど鋭い音が辺りへ響いた。服は少しずつ裂け、その下の肌には赤い痕が増えていく。最初は一本だった傷も、二本、三本と重なり、やがて破れた布地の隙間から血まで滲み始めた。
それでも、カインは私の前から動かなかった。
「カイン……もういいよ……」
これ以上見ていられなくなり、声が震えた。
「もういいから……!」
「よくねぇ!!」
返事は間髪を入れずに飛んできた。
こちらを振り返ることさえしない。
「お前に当たったら意味ねぇだろ!」
直後、また鞭が飛ぶ。
背中を打たれたカインの身体が大きく揺れ、思わず前へ傾いたものの、それでも足を踏ん張って倒れまいとする。
「……っ!」
「カイン……血が……」
肩口を伝う赤いものが、さっきまで綺麗だった服を濡らしていた。
もう見る影もない。
なのに仮面の男は、まるで遊びの続きを楽しんでいるかのようだった。
「あらあら。まだ耐えるの?」
甘ったるい声が、今はひどく耳障りに響く。
「覚醒したばかりで、微々たる妖力しか持っていないワンちゃんが……いつまで頑張れるのかしらねぇ?」
――妖力。
その言葉に、胸の奥で何かが引っかかった。
森で覚醒したとき、カインは私から流れ込んだ魔力を妖力へ変えたと言っていた。
それに、父親からも、これからは魔力供給が必要だと聞かされたらしい。
だったら。
今のカインがまともに戦えないのは、妖力が足りないからなのだとしたら。
「カイン!!」
叫ぶと、銀灰色の髪のあいだから覗く狼の耳が僅かにこちらへ動いた。
「私の魔力、吸って!!」
「いらねぇ!!」
即座に拒絶される。
「なんでよ!」
「お前は黙って後ろにいろ!」
「カイン!!」
どれだけ呼んでも、彼は振り返らなかった。
そのあいだにも鞭は容赦なく唸りを上げ、今度は脇腹へまともに叩き込まれる。
「ぐっ……!」
身体が大きく傾き、とうとう片手を地面についた。
それでもカインは歯を食いしばり、震える腕へ力を込めて無理やり身体を起こそうとする。
仮面の男は、その様子を見下ろしながら満足そうに微笑んだ。
「うふふ……そろそろ限界かしらぁ?」
鞭を握る腕が、ゆっくりと持ち上がっていく。
「それじゃあ――仕上げといきましょうか!」
振り下ろされた一撃は、これまでより明らかに強かった。
「うあああっ!!」
悲鳴とともにカインの身体が大きく揺れ、とうとう片膝が地面へ落ちる。
「カイン!!」
もう我慢できなかった。
私は彼の横へ駆け寄り、そのまま地面へ膝をついた。
近くで見れば、離れていたときには分からなかった傷まで嫌でも目に入ってくる。肩にも腕にも背中にも、衣服の裂け目から覗く肌には幾重もの赤い痕が走り、いくつかは血が滲んでいた。
胸が締めつけられ、涙が一気に込み上げる。
「ばか!!」
震える手でカインの腕を掴んだ。
「なんでここまで……! 私なんて置いて逃げてよ!!」
カインは俯いたまま、荒い呼吸を繰り返していた。地面についた手まで小刻みに震え、とてもまともに立てる状態には見えない。
それでも私の言葉を聞いた途端、指先に力が入った。
「……逃げ……ねぇ……」
「カイン……!」
「お前を……置いて……いけるわけ……ねぇだろ……」
掠れた声でそう言いながら、なおも立ち上がろうとする。
けれど、身体がもう言うことを聞かないのか、持ち上がりかけた膝が再び崩れた。
それでも諦めず起き上がろうとする姿を見た瞬間、胸の奥に残っていた迷いが吹き飛んだ。
「……カイン、吸って」
カインの動きが止まる。
「いいから!!」
ほとんど叫ぶように言いながら、私は自分の髪を掻き上げ、首の後ろを露わにした。
「魔力が必要なんでしょう!? だったら使ってよ! こんなになるまで一人で守ろうとしないで!!」
「……ミッケ」
「早く!!」
カインはすぐには動かなかった。
迷っているのだということは、その顔を見れば分かる。
私から魔力を受け取ることそのものに抵抗があるのか、それとも、まだ高熱から回復したばかりの私へ負担をかけることを恐れているのかまでは分からない。
けれど、仮面の男は待ってくれなかった。
再び鞭を握る腕が動く。
それを視界の端に捉えたカインも、ようやく覚悟を決めたようだった。
「……わりぃ」
掠れた声で呟き、よろめきながらこちらへ身体を寄せる。
持ち上げられた左手の甲には、あの日と同じツガイ紋が刻まれている。
その紋が、私の首の後ろへ触れた。
瞬間、身体の奥にあった何かが一気に引き出された。
「う………あああああっ!!」
カインが大きく仰け反る。
森で初めて紋同士が触れたときにも感じた、身体の内側を駆け抜ける激しい流れが再び起こった。
けれど、あのときとは違う。
今度は私自身にも分かる。
自分の中を巡っていた魔力が、触れ合った紋を通してカインへ流れ込んでいく。その量は決して僅かなものではなく、まるで堰き止められていた水が一気に放たれるように、次から次へと吸い上げられていった。
そして、それに呼応するように、カインの周囲を覆っていた妖力が急速に膨れ上がっていく。
「なっ……」
そこで初めて、仮面の男の声から余裕が消えた。
「そんなところに紋があったの!? まずいわね……!」
慌てて鞭を振り上げる。
けれど、その腕が振り下ろされるより早く。
「――おせぇよ」
低い声が響いた。
そのときにはもう、私の目の前からカインの姿が消えていた。
「え――」
仮面の男が振り返るより先に、その後頭部を大きな手が掴む。
いつ動いたのか、私の目ではまったく追えなかった。
男の背後に立っていたカインの銀灰色の髪からは、先ほどよりもはっきりとした狼の耳が伸び、腰元からは同じ色をした尾まで現れている。
全身を包む妖力も、さっきまでとは比べものにならなかった。
「ぐあっ!!」
カインは後頭部を掴んだまま、男の身体を容赦なく地面へ叩きつけた。
鈍い衝撃音とともに土埃が舞い上がる。
それでも男が起き上がろうとした瞬間、カインの脚が脇腹へ叩き込まれた。
「ぐふっ……!」
身体が大きく蹴り上げられ、そのまま地面を何度か転がってようやく止まる。
カインは不用意に追いかけようとはせず、すぐに私を背後へ置ける位置まで戻ると、低く腰を落として男を睨み据えた。
「……まだやるか?」
先ほどまで立っていることさえ苦しそうだった人物と、同じ男には見えなかった。
狼の耳は真っ直ぐ敵へ向き、腰から伸びた尾も低く構えられている。傷だらけの身体から溢れる妖力は濃く、周囲の空気そのものを重くしているようにさえ感じられた。
仮面の男は脇腹を押さえながら、ゆっくりと身体を起こした。
「……ふっ」
苦しげに息を吐いているというのに、露わになった口元にはまだ笑みが残っていた。
「今日は撤退してあげる」
男は乱れた服を軽く払い、こちらを見ながら意味ありげに唇を吊り上げる。
「でも……次はないわよ」
そう言い残した直後、男の身体が素早く後方へ跳んだ。
カインが追う暇もないほど一気に距離を取り、そのまま建物の陰へ姿を消していく。
「……逃げた……?」
私はしばらく、男が消えた方向を呆然と見つめていた。
だから、目の前に立っていたカインの身体が大きく揺れたことに気づくのが、一瞬遅れた。
「カイン?」
銀灰色の狼耳が、力を失ったように伏せられる。
直後、あれほど濃く溢れていた妖力が急激に薄れ、支えを失ったように膝が折れた。
「カイン!!」
慌てて腕を伸ばしたものの、私の身体でカインの大きな体躯を支えられるはずもなかった。
そのまま地面へ崩れ落ちた身体に縋りつき、私は震える手で頬へ触れた。
「カイン! ねぇ、カイン!!」
返事がない。
傷だらけの身体は確かにここにあるのに、瞼は閉じられたままで、いくら呼びかけても反応してくれなかった。
「起きてよ……カイン……!」
さっきまでとは違う恐怖が、一気に胸の奥へ込み上げてくる。
私を庇って何度も鞭を受け、ようやく勝ったと思った直後に倒れた。
もし、このまま目を覚まさなかったら。
そんな考えが頭をよぎっただけで、息が詰まりそうになった。
「カイン……お願いだから……!」
頬へ触れたまま何度名前を呼んでも、閉じられた瞼は動かない。
視界が涙で滲み、声を抑えることもできなくなった。
「カイン!!」
それでも返事はない。
私は傷だらけの身体へ縋りつきながら、とうとう声の限りに叫んだ。
「カイ――――ン!!」




