18.確かな決意
泣いていても、何もならない。
そう自分に言い聞かせながら、私は頬を伝う涙を乱暴に拭い、どうにか頭を働かせようとした。
カインは傷だらけで、何度名前を呼んでも目を開けない。それでも呼吸はしているし、ほんの少し前まで確かに立って戦っていたのだから、このまま傍らで泣き続けているだけでは駄目だ。
何か、私にもできることがあるはずだった。
焦りながら必死に考えているうちに、ふと一つの言葉が頭に浮かぶ。
妖力。
さっき、あれほど傷ついて立っていることさえ難しかったカインが、一瞬であの男を圧倒できるほどの力を得たのは、私から魔力を受け取った直後だった。
「そうだ……魔力……」
私は慌ててカインの傍らへ膝をつき直すと、地面へ投げ出されていた左腕を両手で持ち上げた。
力の抜けきった腕は、思っていた以上に重い。普段なら簡単に動かしている腕なのに、今は私が両手を使っても支えるだけで精一杯だった。
どうにか手首を持ち上げ、左手の甲に刻まれたツガイ紋を、自分の首の後ろへ押し当ててみる。
「…………吸えてるのかな」
さっきは、身体の中にあるものをごっそり引き出されるような感覚があったのに、今は何も感じない。
もしかすると、位置がずれているのかもしれなかった。
そう思って手の甲を少し動かしてみると、横たわったままのカインの唇から、かすかな声が漏れた。
「う……」
「えっ?」
驚いて顔を覗き込んだものの、瞼は閉じたままだった。
気のせいだったのだろうか。
それよりも今は、ちゃんと紋を重ねなければならない。
「もう……どうしてこんな変なところにあるのよ……」
自分の首の後ろ、それも髪に隠れるような位置にあるせいで、こちらからは見えない。手探りで探すしかないうえに、魔力が流れている感覚までないのだから、本当に触れているのかどうかさえ分からなかった。
私はカインの手首を持ったまま、少し上へずらしてみる。
「ん……っ」
また、声がした。
「……ここ?」
今度は確かめるように、少し強めに押し当ててみた。
「う……」
「だから、変な声出さないでよ、馬鹿!!」
思わず空いていた手でカインの肩を叩いてから、私はすぐに凍りついた。
「あ……」
何をしているのだ、私は。
ついさっきまで私を守るために鞭を受け続け、身体中を傷だらけにした人間を、さらに自分で叩いてしまった。
「ご、ごめ――」
「ぷっ……」
謝ろうとしたところで、妙な音が聞こえた。
よく見ると、カインの肩が小さく震えている。
「く……はは……」
「……え?」
「はははは……!」
とうとう堪えきれなくなったように笑い始めたカインを見て、私は呆然と目を見開いた。
「な、なによ!! 起きてんじゃない!!」
「ごめん……」
まだ笑いを抑えきれていないらしく、カインは僅かに目尻を下げながら息を整えた。
「ミッケが……あんまり一生懸命にやってくれてるから……」
「だったら早く言いなさいよ!!」
「ごめんって」
そう答える声には、先ほどまでの苦しそうな響きがかなり薄れていた。
カインはゆっくり片腕を動かし、指を握ったり開いたりしながら、自分の身体がどこまで動くのか確かめる。その様子を見ているだけで、胸を締めつけていた恐怖が少しずつほどけていった。
「一回目で十分吸えてた。あれで目は覚めたんだ。ただ、しばらく身体に力が入らなくて……動けなかった」
「じゃあ……ずっと起きてたの?」
「途中からな。もう、起き上がれるくらいには回復してる」
「……馬鹿」
本当なら、もっと怒鳴ってやりたかった。
心配させるなとか、起きているなら返事くらいしろとか、言いたいことはいくらでもあったはずなのに、口から出てきたのはそれだけだった。
安心したからだろうか。
止まったと思っていた涙が、また頬を伝い始めた。
一粒落ちると、それを追いかけるように次から次へと溢れてきて、どれだけ拭っても追いつかない。
そんな私を見て、カインの顔から笑みが消えた。
「ミッケ……」
「どうして……」
声を出した途端、喉の奥が詰まった。
さっきまで必死に押さえ込んでいたものが、安堵したせいで一気に形を失っていく。
「どうして……私なのよ」
カインの表情が僅かに揺れた。
けれど、何も言わず、ただ私の続きを待っていた。
「私は……ミモザがよかった……!」
口にした瞬間、また涙が溢れた。
「二人が幸せになってくれるのが、私の夢だったの! カインがミモザにプロポーズして、ミモザが喜んで……いつか二人が結婚して、私はそれを近くで見ていられるんだって、ずっとそう思ってた!」
何度も想像した未来だった。
カインがぶっきらぼうな顔でミモザへ花を渡して、ミモザが嬉しそうに笑う。私はその横で二人をからかって、きっとまたカインに怒られる。
そんな未来が、当たり前のように来ると思っていた。
「なのに……どうしてよ……どうして私なの……!」
行き場のない感情のまま、私はカインの胸を叩いた。
傷があると分かっているのに、止めることができなかった。
「うん……」
カインは避けなかった。
怒りもせず、手を掴んで止めることもなく、ただ私の言葉を受け止めるように小さく頷いている。
「私はっ……ミモザも、カインも……大事なの……!」
「うん」
「二人とも、大切だったの! どっちかを選びたかったわけじゃない! こんなふうに、どっちかが泣くようなことにしたかったんじゃない!」
もう一度、拳が胸へ当たる。
けれど今度は、ほとんど力が入らなかった。
ミモザが泣いていた。
カインは傷だらけになっている。
そして私自身も、何も分からないまま泣いている。
誰一人、こんな未来を望んでいなかったはずなのに。
「私なんて……」
口にした途端、胸が強く締めつけられた。
「私なんて……いなければよかったのに……!」
その瞬間、カインの腕が動いた。
何かを言い返されるより早く身体を引き寄せられ、私は傷だらけの胸元へ強く抱き込まれた。
「それは違う」
頭上から落ちてきた声には、迷いがなかった。
カインの身体は傷だらけで、抱き締めるだけでも痛いはずなのに、その腕は私を逃がすまいとするようにしっかりと背中へ回されている。
「……いてくれ」
さっき仮面の男へ向けていた低く鋭い声とはまるで違う、弱さを隠そうともしない声だった。
「俺には、お前が必要だ」
私は何も言えなかった。
「お前が苦しいなら、その痛みも俺が背負う。全部どうにかしてやるなんて……もう言わねぇよ。そんな簡単なことじゃないって、俺にも分かったから」
抱き締める腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「でも、だからって……いなくなるなよ」
「カイン……」
「そばにいてくれ、ミッケ」
そこで一度言葉を止めたカインの声が、ほんの僅かに震えた。
「俺……一人は、こわいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から古い記憶が蘇った。
昔から、そうだった。
身体ばかり大きくて、口も悪くて、どんなときでも平気そうな顔をしているくせに、カインは時々、私にだけ同じことを言った。
ひとりは嫌だ。
そばにいてくれ。
幼い頃から、何度も聞いてきた言葉だった。
あの頃はまだ、ツガイのことなど何も知らなかった。カインだって、私が自分のツガイ伴だとは知らなかった。
だから少なくとも、この言葉だけは違う。
ツガイ主だから生まれたものでも、覚醒によって突然変わってしまったものでもない。
ずっと昔から知っている、私の友達だったカインの言葉だ。
「……ばか」
声が崩れた。
それまでどうにか堪えていたものが、もう完全に抑えられなくなった。
私はカインの服を両手で掴み、その胸元へ顔を押しつける。
「ばかぁ……!」
子どものように声を上げて泣いた。
ミモザのことも、カインのことも、お父さんとお母さんのことも、知らないうちになくなっていた寮の部屋も、これから命を狙われるという話も、何もかもが怖くて、悔しくて、どうすればいいのか分からなかった。
カインはもう何も言わなかった。
ただ傷だらけの腕で私を抱き締め、泣き止むまで離そうとしなかった。
それで何かが解決したわけではない。
失ったものが戻ってきたわけでもなければ、私がカインのツガイ伴であるという事実が消えたわけでもない。
ミモザが泣いたことも、私の知らないところで人生を勝手に変えられたことも、これから命を狙われるかもしれないことも、何一つなかったことにはならない。
だから私は、カインの胸で泣きながら、一つだけ心に決めた。
こんなものが運命だというのなら、私は認めない。
カインとミモザを引き裂き、私の人生まで勝手に作り替えてしまったものを、祝福などと思えるはずがなかった。
今はまだ、何をどうすればいいのか分からない。
それでも、いつか必ず方法を見つけてみせる。
――このツガイの呪いを、絶対に解いてやる。




