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アートランティス王国の奇跡の年  作者: 無月公主


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38/42

38.セイレーンの鼻歌

 馬車が大きく跳ねた瞬間、向かいに座っていたカインの表情が変わった。


 さっきまで私と言い合っていたときの気安さが消え、鋭く窓の外へ目を向けると、そのまま腰を浮かせる。私が状況を尋ねるより早く扉へ手をかけ、まず自分だけが外へ出た。


「カイン!」


 慌てて後を追いかけようとしたものの、扉の向こうへ広がっていた光景を見た途端、足が止まった。


 御者台の脇には御者が倒れ、護衛としてついてきていた男たちまで、街道の端へ折り重なるように伏している。目立った出血こそ見当たらないが、誰一人として起き上がる気配がない。その周囲には、いつの間に現れたのか、黒い服で全身を包んだ男たちが馬車を取り囲むように立っていた。


 夕暮れの空はすでに薄暗く、王都の中心から離れた道には人影も少ない。そんな静かな街道の中で、黒ずくめの一団だけが異様なほど目立っていた。


 カインは私を背に庇う位置へ移動すると、人数と距離を素早く確認しながら低く告げた。


「まずい、ミッケ。囲まれた」


 その言葉に、背中を冷たいものが走った。


 そして、男たちの間から一人だけゆっくりと進み出てきた人物を見た瞬間、嫌な記憶が一気に蘇る。


「お久しぶりねぇん♡ アカデミーでの生活は順調かしら♡」


 上半分を覆う仮面に、黒と紫を基調とした派手な衣装。腰には見覚えのある長い鞭が下がっている。


 編入前、私を襲ったあの男だった。


「あのときの……」


 喉の奥から声が漏れる。


 カインも当然気づいており、身体を少し低くしていつでも飛び出せる姿勢を取りながら、こちらを振り返らずに叫んだ。


「ミッケ、俺から絶対離れるなよ!!」


「カイン……っ」


 言われなくても、そのつもりだった。


 それでも、前に襲われたときの光景が脳裏をよぎる。私を守るために何度も鞭を受け、傷だらけになっていったカインの姿を思い出すだけで、胸の奥が強く縮んだ。


 護身術も習い始めたし、何もできずに守られているだけでは嫌だと思っていた。けれど、いざ本当に敵を目の前にすると、自分が下手に動けばカインの邪魔になるのではないかという不安のほうが大きい。


 それなら、今の私に確実にできることをすればいい。


「カイン、力吸って!」


 私は髪をかき上げるようにして首の後ろを晒し、紋へ触れやすいよう身体を寄せた。


 カインが一瞬だけこちらを振り返る。


「わかった」


 迷いなく左手を伸ばしてくるのを見て、私も距離を詰めようとした。


 けれど、その手が届くより早く、鋭い音が空気を裂いた。


「そうはさせないわ♡」


 黒い鞭がしなり、狙い澄ましたようにカインの左手首へ巻きつく。


「くっ……!」


 強く引かれた勢いでカインの身体が前へ傾き、私は思わず手を伸ばした。


「カイン!!」


「くそっ!」


 靴底で地面を削るように踏ん張りながら、カインは何とか引き戻そうとする。しかし相手も、前回の戦いで私から力を受け取る方法を理解したらしい。わざわざ左腕だけを狙ったのも、紋を私へ触れさせないためなのだろう。


 しかも今度は、仮面の男だけではない。


 周囲を固めていた黒ずくめの男たちまでじりじりと距離を詰め、カインをこちらから引き離そうとしている。


「くっ……!」


 こちらへ伸ばされた左手は、あと少しのところで届かない。


 私も身を乗り出したが、カインの身体は少しずつ敵の側へ引き寄せられていった。


 どうしよう。


 このまま離されたら、また前と同じことになる。


 そう思った、そのときだった。


 風の音に混じるように、低い旋律が聞こえてきた。


 最初は誰かが遠くで歌っているのかと思ったけれど、すぐに違うと気づく。歌詞のない、ただの鼻歌。それなのに深く響く低音は、不思議なほど耳へ残り、空気そのものを震わせるように広がってきた。


 その声を聞いた途端、仮面の男の様子が一変した。


「……っ!! 耳を塞ぎなさい!! 退却よ!!」


 先ほどまで余裕たっぷりに笑っていたとは思えないほど切羽詰まった声だった。


 仮面の男は自分の耳を押さえながら慌てて鞭を引き戻し、黒ずくめの男たちも一斉に両耳を塞ぐ。そのまま反撃する素振りすら見せず、街道の向こうへ退いていった。


 突然拘束が解けたカインがよろめきながらこちらへ戻ってくる。


 私は彼を支えつつ、何が起きたのか分からないまま敵が消えた方向を見つめていた。


 ほどなくして、鼻歌に重なるように馬の蹄が地面を打つ音が近づいてくる。


 規則正しい足音とともに姿を現したのは、一頭の馬だった。


 その背に乗っていた人物を見て、私は目を見開く。


「アベル様!?」


 黒髪に鋭い紫の瞳。馬上にいても分かるほど大柄な体格は、間違えようがない。


 ツガイ科で同じ教室にいる、アベル・アルデリヒだった。


 さらに少し遅れて、もう一頭の馬がこちらへ近づいてくる。その騎手が黒髪を揺らしながら馬を止めるのを見て、私はさらに驚いた。


「……と、エターナ!」


 エターナは静かに馬から降りると、まず周囲へ目を配り、敵が完全に去ったことを確認してから私のところへ歩いてきた。


「言ったでしょ……命が危ないって」


 ついさっき図書館で言われたばかりの言葉を思い出し、私は何とも言えない顔になる。


「ど、どうしてここに?」


 偶然にしては出来すぎている。


 けれど、事情を尋ねるより先に、隣のカインがアベルへ向き直った。


「わりぃ。助かった、アベル」


 アベルは馬から降りながら、こちらへ一度だけ頷いた。


 それだけだった。


 いつも通り、ほとんど喋らない。


 けれど今になって考えてみれば、さっき聞こえてきたあの低い鼻歌は、どう考えてもアベルのものだった。


「間に合ってよかったわ。このまま屋敷まで護衛してあげる」


 エターナは倒れている護衛たちへ視線を向けながら、当然のようにそう言った。


「えぇ!? いいの!?」


「ここで置いていくほうが危ないでしょう」


 ごもっともである。


 ひとまず倒れたままの人たちを放っておくわけにもいかず、私たちは御者のところへ駆け寄った。呼吸はしており、目立った外傷も見えない。


「大丈夫ですか?」


 肩を揺すりながら声をかけると、しばらくして御者の瞼が動いた。やがて目を開けた彼は、一瞬ぼんやりとしたあと何が起きたのか思い出したらしく、はっと身体を起こす。


「ミケリア様!?」


「大丈夫です。もう敵はいません」


 私たちが無事であることを確認すると、御者はほっとしたように息を吐いた。まだ少し足元はふらついていたけれど、しばらく休めば馬車を動かせそうだった。


 一方、カインは近くに倒れていた護衛の脇へしゃがみ込み、頬を軽く叩いている。


「おい、起きろ。終わったぞ」


「……っ、カイン様……?」


 護衛もほどなく意識を取り戻し、混乱した様子で周囲を見回した。


 幸い、大きな怪我をしている者はいないらしい。それが分かって、ようやく私も少しだけ肩の力を抜いた。


「でも……どうして急に引いていったんだろ」


 敵が消えていった方向を見ながら呟くと、エターナがこちらへ顔を向けた。


「アベルの声には特殊な力があるの。アルデリヒ公爵家がどういう家か、分かる?」


 そう聞かれて、授業で習ったことを必死に思い出す。


 外交、情報、交渉。そして、先祖にあたる種族は――。


「あ……セイレーン」


「そう。アルデリヒ家はセイレーンの血を引いているから、アベルの声にもその性質が強く現れるの」


 納得すると同時に、今度は別の不安が浮かんだ。


「でも、それなら私たちまで危ないんじゃ……?」


「ツガイには効果がないわ」


 エターナはあっさり答えた。


「だから私にも、ミケリアやカインにも影響はない。今ここにいる相手なら、アベルも普通に喋って大丈夫よ」


 そう言われて、私は思わずアベルを見る。


 すると彼は、少し気まずそうに眉を寄せた。


「……そ、そうか。普段あまり喋らないから、癖になってしまって……」


 思っていたよりずっと普通の声だった。


 しかも、こちらを順番に確認したあと、わずかに心配そうな表情まで浮かべる。


「怪我はないのか?」


「え……あ、はい」


 なんだろう。


 すごく意外だ。


 教室ではいつも無表情で、エターナの隣に黙って座っていることが多い。大柄で近寄りがたい外見もあって、もっと怖い人だと勝手に思っていた。


 もしかして、実はかなり優しい人なのでは。


「アベル様、ありがとうございました。本当に助かりました」


 改めて頭を下げると、アベルは少し困ったように首を横へ振った。


「様はいらない……。カインには警備でよく世話になっていたからな」


「警備?」


 思わず顔を上げる。


 アベルとカインの間にそんな接点があったとは知らず、二人を交互に見比べていると、エターナが深々とため息をついた。


「……愛し合う以前に、貴族の基礎知識が必要そうね、ミケリア」


「え?」


 何がどう繋がるのか分からないまま首を傾げる私の隣で、カインは心底疲れたように大きなため息をついた。

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