32.馬鹿で良い奴
その日の夜。
グレゴリー公爵家での夕食を終えた私は、自室へ戻るため、カインと並んで廊下を歩いていた。
窓の外はすでに夜の色に沈み、等間隔に並ぶ壁灯の明かりが、磨き上げられた床へ淡い光を落としている。少し前までいた食堂のほうからは、使用人たちが食器を片づけるかすかな音が聞こえていたが、それも距離が離れるにつれて次第に遠ざかっていった。
今日の夕食も、いつもと変わらなかった。
カインのお母様は、私の皿が空きかけるたびに「ミッケちゃん、これも食べてみて?」と料理を勧めてくれたし、アルバトラ様も珍しい料理が出れば、当然のように私へ説明してくれた。
『ミケリア、これはノルマー産の上質な果物を煮詰めてソースにした鴨肉でな。酸味が強そうに見えるが、肉と合わせるとちょうどいい』
そんなふうに勧められれば、私も「へぇ」と頷きながら素直に口へ運ぶ。
考えてみれば、ずっと昔からそうだった。
この屋敷へ遊びに来れば、二人は私をカインの友人として扱う以上に、何かと世話を焼いてくれた。食卓へ自然に混ぜられ、服を用意され、礼儀作法やダンスを習わせてもらい、何か困ったことがあれば屋敷の者が当然のように手を貸してくれる。
昔の私は、それをただ「カインの両親は面倒見がいい」としか思っていなかった。
けれど今は、その意味を知っている。
八歳の頃にはすでに、アルバトラ様たちは私がカインのツガイ伴である可能性を知っていた。
それを知ってしまったあとでは、同じ思い出なのに、どこか違うものに見えてくる。
「はぁ……」
気づけば、深いため息が漏れていた。
すぐ隣を歩いていたカインが、訝しそうにこちらへ顔を向ける。
「どうした? ミッケ」
「ううん。なんでもない」
反射的にそう答えたものの、誤魔化せるはずもなかった。カインは歩調を少し緩め、私の横顔を覗き込むように眉を寄せる。
「なんでもない顔してねぇだろ」
「……そういうところだけ妙に鋭いわよね」
「昔からお前の顔見てるからな」
あまりにも自然に言われて、余計に口を開きづらくなった。
しばらく黙ったまま歩いていたけれど、このまま適当に誤魔化したところで、どうせ自室の前までついてきて問い詰められるだけだろう。私は観念して小さく息を吐いた。
「……今になって思うとさ」
「ん?」
「カインのお父さんもお母さんも、昔から私のこと、娘みたいに扱ってたなぁって」
カインの歩みが、ほんのわずかに緩んだ。
私は彼を見ず、前を向いたまま続ける。
「今日だって、お母様は『ミッケちゃん、これも食べて』って何度も料理を勧めてくるし、アルバトラ様も『ミケリア、これはノルマー産の果物で作ったソースでな』とか、いちいち説明してくるし」
「親父、食い物の産地説明すんの好きだからな」
「そこじゃないのよ」
思わず横目で睨むと、カインは口を閉じた。
「昔からずっとあんな感じだったけど……今は意味が違って見えるっていうか。あの頃から、みんな知ってたんだなって思って」
私だけが知らなかった。
カインも知らなかった。
けれど、大人たちは私がいずれこの家へ入る可能性を知ったうえで、部屋を用意し、教育を受けさせ、家族のように扱っていたのだ。
そこに悪意がなかったことも、今なら分かる。むしろ、私を大切にしてくれていたのだと思う。
だからこそ、余計に気持ちの置き場所が分からなかった。
全部が嘘だったわけではない。それでも、知らされていなかった意味があまりにも多い。
カインはしばらく何も言わず、私の横を歩いていた。
やがて、何かを確かめるように少し間を置いてから、低い声で尋ねてきた。
「……まだ、ミモザに罪悪感あんのか?」
胸の奥を見透かされたようで、私は小さく息を詰めた。
「うん。当たり前だよ」
そこだけは誤魔化せなかった。
ミモザに叩かれた頬の痛みはもう消えている。
けれど、泣きながら「泥棒猫」と叫ばれた声は、今でも妙にはっきり覚えていた。
私が望んだわけではない。
カインだって、あんな形でミモザへの気持ちを失うことを望んでいたわけではない。
ツガイについて学べば学ぶほど、そのことは理解できるようになった。
それでも、ミモザから見た結果は変わらない。
大好きだった人が、ある日突然、自分ではない女を好きになった。その相手が、ずっと近くにいた友人だったのだから、傷つかないはずがない。
カインはしばらく前を見たまま歩いていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「ミモザには……俺からも言ってきたんだよ。別れを」
「え?」
思わず足を止める。
カインも数歩進んだところでこちらが止まったことに気づき、振り返った。
「いつ?」
「ミッケが森で倒れてた間」
その言い方に、嫌な予感がした。
「……いつよ」
今度は少し強く尋ねる。
カインは一瞬だけ視線を逸らした。
「ミモザの誕生日の……次の日」
しばらく、言葉が出なかった。
意味を理解した途端、胸の奥からかっと熱いものが込み上げる。
「次の日!?」
思わず上げた声が、夜の静かな廊下へ響いた。
カインが顔をしかめる。
「声でけぇよ」
「だって! 誕生日すっぽかした次の日でしょう!?」
ミモザは、きっと待っていた。
あの日、カインが来ると思っていたはずだ。
もしかすれば、何か特別なことまで期待していたかもしれない。実際、カインはあの日、宝石花を持って告白するつもりだったのだから。
その誕生日に姿を見せず、翌日に現れたと思えば、別れを告げる。
「それは……あまりにも――」
ひどい、と言いかけて、私はどうにか言葉を飲み込んだ。
以前の私なら、迷わずそのまま怒鳴っていただろう。
けれど今は、あの森で何が起きたのかを、少なくとも以前よりは知っている。
覚醒したツガイ主は、思考も人格も失うわけではない。それでも伴へ向かう感情と庇護欲は、本人ですら戸惑うほど強烈なものになる。魔力回路も身体も突然変化し、カイン自身、何が起きたのか理解できないまま混乱していた。
しかも、あのとき私は高熱を出して倒れていた。
そんな状況の中で、すべてを器用に処理しろと言うのも酷なのだろう。
腹は立つ。
けれど、事情を知ってしまった今は、昔のようにただ一方的に責めることもできなかった。
「……でも、言ったからって」
私は視線を床へ落とした。
「私が横取りしたことには変わらないよ」
「横取りじゃねぇって」
「でも、ミモザから見たらそうじゃない」
カインが何か言おうとした気配がしたけれど、私はそのまま続けた。
「カインが自分から別れたって聞いたからって、そんな簡単に『じゃあ私は悪くないんだ』なんて思えないよ。だって、私がいなかったら二人は今も――」
「ミッケ!」
突然、大きな声で遮られた。
驚いて顔を上げる。
カインは妙に真剣な顔をしていた。
何を言うつもりなのかと思って待っていると、彼は何かを決意したように拳を握り締める。
「すまん!!」
「……何が?」
「俺が、ミッケのことタイプじゃなかったから!!」
「…………は?」
頭の中が、一瞬きれいに止まった。
こちらが理解できていないことにも気づかず、カインは必死な顔で続ける。
「だからこんなややこしいことになったんだよ! お前がもっとお淑やかで、こう……キラキラしてて、女の子らしくて! 俺の好きな感じだったら、昔からすっげぇ好きになってたと思う!」
私は無言でカインを見つめた。
こいつは今、何を言っているのだろう。
「そしたらミモザを好きになる前に、お前を――」
そこまで聞いたところで、身体が勝手に動いた。
「ふんっ!!」
「ぐぉっ!?」
ほとんど助走もないまま踏み込み、その勢いで跳ね上げた膝が綺麗にカインの腹へ入る。
さすがに鍛えているだけあって倒れはしなかったものの、不意を突かれたカインは腹を押さえ、二、三歩後ろへよろめいた。
「な、なんで蹴んだ!?」
「知らない!!」
「俺、慰めようとしただけ――」
「それが余計腹立つのよ!!」
私はそれ以上聞く気になれず、自室の扉を勢いよく開けた。
「ミッケ!」
「おやすみ!!」
返事を待たず、ばたんと扉を閉める。
廊下からまだ何か言っている声が聞こえたけれど、聞こえないふりをして、そのまま寝台へ向かった。
勢いのまま柔らかな寝具へ身体を投げ出し、枕へ顔を埋める。
「……馬鹿なやつ……」
くぐもった声が、自分の耳にだけ届いた。
腹が立つ。
あまりにも言い方がひどい。
もっとお淑やかなら、もっとキラキラしていたら、もっと女の子らしかったら――人が多少なりとも気にしている部分を、まとめて叩きつけてきたようなものだ。
普通、慰めるならもっと別の言い方があるだろう。
それなのに、腹が立って仕方がないのに、あいつが何を言いたかったのかも分かってしまった。
私がミモザからカインを奪ったのではない、と伝えたかったのだ。
覚醒する前のカインは、私を恋愛の相手として見ていなかった。
だから、私が何かをして二人の間へ割り込んだわけではない。ミモザとの別れも、自分の口で告げ、自分の責任として決めたことなのだと、きっとそう言いたかった。
もっとまともな言葉を選べばいいのに。
昔から、こういうところだけは本当に下手くそなのだ。
けれど、私がずっとミモザへの罪悪感を抱えていることに気づいて、何とか少しでも軽くしようとしてくれていた。
それが分かった途端、胸の奥に溜まっていたものが、急に形を変えた。
怒りで熱かったはずの目の奥が、今度は別の理由で熱くなる。
私は誰にも見られていないのに隠すように、枕へさらに顔を押しつけた。
「……ほんっと、馬鹿……」
声にした途端、堪えていたものが緩んだ。
ミモザへの罪悪感が消えたわけではないし、このツガイという仕組みを受け入れたわけでもない。それでも、自分だけが苦しくて、自分だけがミモザに申し訳ないと思っているように感じていたものを、カインも自分の側から抱えようとしていたことだけは、痛いほど伝わってきた。
あいつだって、失ったものがないわけではない。
それなのに、私が苦しんでいることに気づけば、あんな馬鹿みたいな言葉を並べてまで、こちらを楽にしようとする。
そう思えば思うほど、胸の奥が締めつけられ、とうとう涙が枕へ染み込んだ。
「……馬鹿なやつ……」




