20.太陽の匂い
ここ数日で、あまりにも多くのことが起こりすぎた。
だから一度、自分が今どこまで理解しているのか、きちんと頭の中を整理しておいたほうがいい気がした。
私はグレゴリー公爵家の図書室、その奥まった一角にある長机へ陣取り、周囲に何冊もの本を積み上げていた。高い天井近くまで伸びる書棚には古い革装丁の本が隙間なく並び、その中には一般には出回っていないツガイ関連の資料や、過去の記録まで含まれているらしい。
呪いを解くと決めてからというもの、時間さえあればここへ籠もり、片っ端から目を通していた。
まず、ツガイには『主』と『伴』がいる。
主になるのは、カインのように古い異種族の血を濃く受け継いだ高位貴族がほとんどらしい。ツガイ主には左手の甲に紋があり、その対となる紋を持つ相手がツガイ伴となる。
一方、伴側の紋が現れる場所には決まりがない。
私の場合は、運悪く――いや、ここまで来ると運がいいのか悪いのかさえ分からないけれど――髪に隠れた首の後ろにあった。
そして、主と伴の紋が直接触れたとき、ツガイは覚醒する。
私とカインの場合、それがあの森だった。
古い遺跡の塀が崩れ、落ちた私をカインが受け止めた。その拍子に、手袋を外していたカインの左手の甲が、私の首の後ろへ偶然触れたのだ。
本当に、それだけだった。
たった一度、紋同士が触れただけで、私たちの人生はひっくり返った。
覚醒したツガイ主は、伴から魔力を受け取れるようになり、それを『妖力』という別の力へ変換するらしい。
カインの頭に狼の耳が現れたり、あの仮面の男と戦ったときには尻尾まで生えたりしたのも、その妖力によってグレゴリー家の祖先である獣人の血が表へ出たからだという。
いわゆる、先祖返りというものらしい。
そして私にも、覚醒による変化があった。
私はずっと、自分には魔力がないと思っていた。幼い頃から何度測定しても結果は同じだったのだから、疑ったことすらなかった。
それなのに、覚醒した途端に魔法まで使えるようになった。
本によれば、どうやら私の中にも最初から魔力そのものは存在していたらしい。ただ、ツガイとして覚醒するまでは魔力を外へ出すための経路がうまく働いておらず、測定にも引っかからない状態だった――とかなんとか。
そこは何度読んでも難しい。
とりあえず、『なかったのではなく、使えなかった』と理解しておけばいいのだろう。
そこまでは、まあいい。
問題はここからだった。
ツガイ主は覚醒した瞬間から、伴に対して強烈な感情を抱くようになる。
そばにいたい、守りたい、触れたい。そして、何よりも優先したい。
カインが森で突然、私に向かって「好きだ」などと言い始めたのも、そのせいだった。
しかも本人いわく、誰かに無理やり操られている感覚ではないらしい。
命令されているわけでも、考えを捻じ曲げられているわけでもなく、本人にとっては間違いなく『自分自身の感情』なのだという。
そこが、一番理解できない。
だって、カインはミモザを好きだった。
それは私が誰よりも近くで見てきた。
ミモザのために紅茶の淹れ方を覚え、嫌いだったダンスを練習し、王女の隣へ立っても恥ずかしくないよう礼儀作法まで必死に身につけた。宝石花を探しに森へ行ったのだって、十六歳の誕生日にミモザへプロポーズするためだった。
その気持ちは嘘ではなかったと、カイン自身も言っている。
なのに覚醒した途端、その想いよりも私への感情のほうがずっと大きくなった。
どう考えても、おかしい。
さらに厄介なのは、ツガイ伴である私には同じ変化が起こらないことだった。
カインが私をどれほど愛そうが、私はカインを好きになるよう強制されるわけではない。嫌いになることだってできるし、他の誰かを好きになることもできる。
感情だけなら自由なのだ。
そのくせ、身体のほうはしっかりツガイとして繋がってしまっている。
私の身体はカインに適した魔力を作るようになり、カインはそれを必要とする。代わりに、カインの中で余った魔力などは私へ戻され、二人の間で魔力を循環させることで、互いの身体や力も少しずつ安定していくらしい。
おまけに、そのためには定期的な魔力供給まで必要になる。
……なんだそれ。
感情は自由なのに、身体だけは勝手に相手を必要とするなんて、ものすごく性質が悪い。
しかも、ツガイは二人だけの問題ですらなかった。
覚醒すれば国へ正式な届け出を出さなければならず、そこから先は『ツガイ法』という専用の法律まで適用される。
力を持つツガイ主を弱らせるために伴が狙われることもあるため、住居や護衛にまで国や家門が介入してくるらしい。
私は、それを嫌というほど身をもって知った。
知らないうちにアカデミーの寮を解約され、お父さんとお母さんまで別の場所へ移され、その理由を理解する暇もないうちに、本当に殺されかけた。
これが、今の私が知っている『ツガイ』だった。
こうして一つずつ整理してみると、知らなかったことの多さに自分でも呆れてしまう。
無知というのは恐ろしい。
グレゴリー公爵家へ戻ってきてからというもの、私はそれをつくづく実感していた。
ツガイについて何も知らなかったこともそうだけれど、よくよく思い返してみれば、私は八歳の頃からずっと、目の前に並べられていた不自然なものを、一度として疑ったことがなかったのだ。
そもそも、平民の娘である私に、公爵家の屋敷の中で専用の部屋が用意されている時点でおかしい。
遊びに来ただけなら客間で十分なはずなのに、いつの頃からか私の部屋が当然のように存在し、泊まることになれば着替えも寝具もすぐに揃えられた。
王城の催しや高位貴族の集まりへ参加することになれば、私の身分では到底手の届かないようなドレスまで、何食わぬ顔で用意されていた。
それなのに当時の私は、何一つ深く考えなかった。
カインやミモザと一緒に行動することが多いから、そのついでに面倒を見てもらっているのだろう――本当に、その程度にしか思っていなかったのだ。
「……いや、どう考えてもおかしいでしょ」
思わず声に出してしまい、私は机の上に積み上がった本を前に頭を抱えた。
考え始めると、まだまだ出てくる。
カインがミモザの隣に立つため、礼儀作法やダンスを習っていた頃のことだ。
練習相手として何度も巻き込まれた私にも、当然のように同じ先生がついていた。
『ミッケ、お前もやれ』
『なんで私まで!?』
『一人じゃ練習にならねぇだろ』
そんなやり取りを何度したか分からない。
だから私は、自分まで礼儀作法を教えられているのも、カインの練習相手だから仕方なく先生が付き合ってくれているのだとばかり思っていた。
けれど今になって思い返してみれば、その先生たちは誰一人として、私を『平民の子どもだから』と適当に扱ったことなどなかった。
立ち方も、歩き方も、食事の作法も、高位貴族に対する挨拶も、一つひとつ丁寧に教えられた。できなければその場で直され、覚えるまで何度でも繰り返された。
あれはどう考えても、カインの練習相手に必要な範囲を超えている。
私は最初から、私自身のために教育されていたのだ。
将来、公爵家へ入っても困らないように。
「……未来の公爵夫人教育じゃない」
そこまで辿り着いたところで、私はとうとう机へ突っ伏した。
何年越しの答え合わせなのだろう。
しかも思い返してみれば、アルバトラ公爵だけではない。
カインのお母様にも、私はずいぶん可愛がってもらっていた。
初めて屋敷へ来た頃こそ、突然連れて来られた泥だらけの平民娘に周囲も戸惑っていたはずなのに、いつの間にか食事へ招かれ、体調を崩せば心配され、帰るときには「またいらっしゃい」と声を掛けてもらうようになっていた。
幼い頃には、抱き締めてもらったことさえある。
あのときの私は、それをただ『カインのお母さんって優しいなあ』程度にしか受け止めていなかった。
「ここまでされてて、なんで気づかないのよ、私……」
誰も真実を口にしなかったとはいえ、今になって振り返れば分かりやすいことばかりだった。
私が知らなかっただけで、グレゴリー家の大人たちにとって、私は八歳の頃からすでに『カインのツガイ伴』だったのだ。
専用の部屋も、ドレスも、教育も、見えないところについていた護衛も、全部に理由があった。
そう考えると、知らないうちに自分の人生の道筋を整えられていたことへの薄気味悪さと、その一方で、何も知らない私を約八年間ずっと守ってくれていたのだという事実が入り混じり、簡単には言葉にできない気分になる。
ありがたい、とだけ思うこともできない。
かといって、すべてが不快だったとも言い切れなかった。
私は机に頬をつけたまま、積み上げた本をぼんやりと眺めた。
八年間も何も気づかずにいた分まで、これから徹底的に調べてやる。
知らなかったせいで、今度こそ誰かに自分の人生を勝手に決められるのは嫌だった。
そう思って次の本へ手を伸ばしたところで、図書室の扉が静かに開いた。
「ミッケはまた図書室か」
姿を確認するまでもなく、声だけで誰なのか分かった。
顔を上げれば、案の定カインが扉のところに立っている。身体にはまだいくつか包帯が残っていたものの、歩き方を見る限り、昨日よりも随分回復しているようだった。
「あんた、すぐ来るわね」
「仕方ねーだろ」
カインは当然のようにこちらへ歩いてくる途中で、わずかに鼻を動かした。
「匂いとかで分かっちまうんだから」
「……匂い?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
意味が頭へ入った途端、私は思わず自分の服の襟元を摘まみ、鼻へ近づける。
「ちょっと待って。私、臭いの!?」
「そういう意味じゃねぇよ!」
カインが慌てて否定する。
「じゃあ、どんな匂いよ!」
「どんなって……」
詰め寄ると、カインは本気で困ったように眉を寄せた。
覚醒してから獣人の血が以前より強く表へ出ている影響なのか、カインの嗅覚はさらに鋭くなっているらしい。とはいえ、人の匂いを言葉で説明する機会など今までなかったのだろう。
「うーん……」
腕を組み、しばらく真剣に考え込む。
やがて何とか近いものを見つけたらしく、カインは少し自信なさげに口を開いた。
「甘ったるくて……なんつーか、洗濯物を太陽の下で干したときみたいな匂い」
「どんな匂いよ!!」




