18. “Let me handle this.”
聖女が復帰して、カンブー渓谷は浄化の完了を見て確認するだけだったので、馬に騎乗したまま入り込んだ。ミュゼッタはたびたびお世話になっているビスコッティの首を撫でる。気まずさがやわらいだ。
今回キャロラインに焦りは見えない。浄化が行き届いた地で清浄な空気漂う谷は快適なのだろう。
以前は魔物が集まっていた場所もきれいなものだ。
「わたくしは必要なときに浄化を行うまでです」
薄い瘴気すらなかったが、徹底的に浄化をかけていった。数年はカンブー渓谷に瘴気が溜まることはないだろう。
宿に戻って、フォーティスは知らせを持ってきた。
「聖女の報告書は司教から大司教の手に渡ったようだよ」
「では……」
ミュゼッタに聖女としての能力があると大っぴらにされてしまう。
「上層部がどれだけ聖女キャロラインの言を信用するかによるかな」
事実確認は避けられない。もうすぐそこに大司教の足音が幻聴がしそうで、耳を塞いだ。その上から、フォーティスは手を重ねた。
「大丈夫だから。私がいる」
音は遠くても、彼の心を近くに感じる。
偽りのなぐさめでも、ミュゼッタの心は穏やかさを取り戻した。
騎士団本部に戻ってから一週間もしないうちに、ミュゼッタはフォーティスから個人的に呼び出された。
執務室の机には一目で格の違いがわかる封筒が置いてある。封蝋は前世でも拝見したことがあった。中身はどうせ召喚要請だ。
それにしてもなぜ、どうして、連絡が来るとしても教会からではないのか。封を開けてもいないのに、手足が冷える。何度見ても、王家の印だった。そんな上からの連絡など恐ろしさしかない。
「私に任せてくれる?」
封筒を指の間に挟んだフォーティスが微笑む。
「どうか、よいようにしてください……」
恐ろしくて、ミュゼッタは救世主を拝んでいた。目の前でぺらりと中身を開けられる。片目で読むという暴挙、もしくは文字を読むときの癖なのか。変なの。
「じゃあ、私がミュゼッタをエスコートさせてもらうね」
「斬首台までですか? ……お優しいんですね」
罪状は詐称罪だとか、ひねり出せばいくらでも用意できるだろう。権力者の手にかかれば。
「こらこら。これは顔を見せながら話を聞かせてくれっていうだけだから」
「でも、差出人は……」
「うん。王家だね」
「なんでそんなに落ち着いてられるんですか」
「先に私から王家へ手紙を送ったし、その上で返事をもらったからだよ?」
「えっ? どういう経路で……」
貴族を牛耳る存在に物申せるフォーティスの神経はいかほど太いのだ。騎士団長って、国王の親友なのか。
「まぁいろいろね。悪いけど謁見は避けられない。教会より陛下に訴えたほうがいい。穏便に済ませるにはこれが最善だから。……ごめんね。ミュゼッタは王家も教会も好きじゃないみたいだけど」
でもね、とフォーティスは息を吐いた。
「あれだけの力だから、王族の側妃にでもさせられるよ」
息が止まりそうになった。
「いやですっ!」
考えるよりも先に叫んでいた。口を塞ぐがもう遅い。
「王族に縁ができると知ってそんな顔するのは変人って自覚あるのかな?」
「変人でいいです。王宮には近寄りたくもないです」
「なら、平民の私で手を打たない? いいやり方を知ってるよ。表面上は王族に従うように見せて、ミュゼッタの自由は保証できる」
「どういう意味で……どうやって、ですか」
王家がだめだからと、フォーティスが名乗り出るのはどういった発想からか。
するり、と手を取られる。ぼーっとしていると、彼は指先にキスを落とした。
「ミュゼッタ。私のそばにいてほしい。このフォーティス・ビドジールと婚約してください」
それではいかにも、女に惚れた男が結婚を請う口上ではないか。遠ざかる意識をなんとか引き寄せる。
「結婚はできません」
「だから、婚約だよ?」
「わたし、二十五になりますが」
「そう。私は二十八になる」
行き遅れのはずれくじを娶る気ですか? と尋ねたつもりだった。張り合いを求めたわけでも、自己紹介合戦をしたかったわけでもない。お金もなければ人脈もない、婚約したとてフォーティスに得がないのだ。
「王家への忠誠を誓って騎士になられたのでは?」
「うん。そしてね、剣で私に敵う王族は現存しないんだよ」
なぜか腕自慢に話が飛躍した。ますます彼の真意の謎は深まる。
「……わかる?」
自信に満ちた笑みを浮かべた。
それはいざとなれば実力行使に訴えるという脅し? 王族さえも手にかけることを厭わない、とどう取り繕っても叛乱を起こすことになる。
そんなことさせてはいけない。
ぷるぷると首を振った。
「聖女の力を隠蔽して私物化する、と……?」
「ちょっと違うね。私はミュゼッタの聖女の力を公表してもいいけど、ミュゼッタを独り占めしてしまいたいんだよ」
理解が遅れて、ぱちぱちと瞬きする。
「婚約でもしたら、きみを守る大義名分ができる」
とりあえずはミュゼッタがいるところどこへでもくっついていても不審がられない。独り身でいれば教会の指示するままどこそこ飛ばされる。王族に嫁いでも同じ。しかしそこで王族以外と結婚していれば夫が口出しできる。家の用事で、や夫婦の都合だ、と堂々と断りやすい。夫の立場が強い場合に限るが、どうやってかフォーティスはその条件を満たしているのだ。そうでなければ傲慢なだけになる。
「ミュゼッタはいいの? むりやり王族の側室にさせられたり、自分の意思に反して働かされるのは」
「いやです。でも、相手が人道に悖る行いをするならばこそ、こちらは潔白でいなければ……」
つん、とフォーティスがミュゼッタの鼻頭をつついた。
「ほら、そういうところだよ。私がミュゼッタを好きになったのは」
「はい? どこですか」
「裏で誠実であろうとする。私を諌める。簡単にできることじゃないよ」
「いえいえ……」
「知ってる? ミュゼッタ、きみはきれいだ」
綺麗? まさか。
そう褒めるフォーティスのほうが麗しく映る。迷いなく一筆描きしたような眉の下、さわやかな緑茶色の瞳は目を閉じてしまう瞬間がもったいない。けれど世の女性の心の平穏のために閉じられていたほうがいいとも思ってしまう。鼻から抜ける息が前髪に落ちて、皮肉に歪められてなお、とろける言葉を紡ぐ唇は、ーーなぜこちらに迫っている。
ミュゼッタが瞬いた瞬間に、額にぷにっとしたものを感じた。それはこめかみから目の横、頬骨、耳の下、あごへと移動していった。
フォーティスの両手に両頬を包まれながら、ぱかんと口が空いた。
「…………にゃふ?」
「猫になってしまったのかな? ミュゼッタは」
そんなわけがない。この場にいる動物といえばストゥだけだが、いつもミュゼッタを守ってくれるあの子は反応を見せない。いや、ストゥが動かないということは、危険ではない?
キスしても唇を避けているのはせめてもの配慮なのか。無抵抗のミュゼッタを至福とばかりに眺めている。されたことのない攻撃に、完全敗北を喫していた。
頭の中に雲があるみたいに思考がふわふわしてまとまらない。
「これまでも私はものすごくわかりやすく伝えていたよね?」
親指で耳たぶを撫でられる。肩が跳ねた。指がなぞった部分に熱が走る。フォーティスの息遣いが耳の穴に直接入ってくる。
「好きだよ、って」
産毛まで総毛立って、ミュゼッタはコクリと喉を鳴らした。
“Let me handle this.”
(「私に任せて」)




