傲慢
クリスが、屋上の入口に立っていた。
図鑑を抱えた姿を見て、胸が高鳴った。
ずっと会いたかった。声を聞きたかった。
「クリス……」
「あら、キリヤ様、こちらにいらしたんですね」
俺の呼びかけに、返事はなかった。
まるで、俺の声だけが彼女に届いていないみたいだった。
彼女は俺を一度見て、あっ、という声を零し、会釈をした。
そして、キリヤへ視線を戻した。
その顔には、病室で俺に向けた、あの怯えがない。
俺は、あの顔をされるのが嫌だった。
……なんで、この貧乏男爵には。
病室で、俺は何度も謝った。
怖がっている彼女を見て、もう無理に近づいてはいけないと思った。
でも、心のどこかで期待していたのかもしれない。
記憶が戻るまで待てばいい。その間に、出来ることをすればいい。
クリスが誰にも心を開けないのなら、まだ俺にも時間がある。問題ない。
だがしかし……。
朝の学園で、あいつと並んで歩いていたクリスは、楽しそうに笑っていた。
俺が何を言っても見せてくれなかった顔だった。
あの笑顔は、俺に向けられるはずだったのに。
こんな顔だけの男が近づかなければ――。
怒りと嫉妬と罪悪感が混じり合い、吐き気を催してきた。
そんな感情を飲み込んで、
「……お前達、下がっていろ」
取り巻きへ告げ、クリスに向き直る。
声を荒らげてはいけない。優しく話さなければ。間違えては駄目だ。
クリスは俺に惚れていたんだ。なら、また惚れさせればいい。
「クリス。もう一度、婚約の話をしないか。今度こそ、君を大切にする」
彼女は俺の顔を見なかった。
視線が、腰の辺りで止まっている。
「……その前に、剣から手を離していただけますか」
「あっ、しま……」
くそ、しまった。
自分の手を見下ろした。
剣の柄を握っていた指に、力が入ったままだった。
慌てて手を離す。
「ち、違う。誤解なんだ。俺は、君が心配で……その」
「心配?」
「君は記憶が戻っていないのに、よく知らない男と一緒にいたら――」
クリスの表情が、少しずつ硬くなっていた。
「……あの、私、日記を読んだんです」
「に、日記、だと?」
「ええ、過去の私はあなたと植物園へ行きたいと書いていました。あと、何を謝ればいいのか分からないって。私、何か悪いことをしたんですか?」
一瞬焦ったが、悪いことは書かれていなそうだ。大丈夫だ。
俺はクリスの味方でいようとしたはずだ。
『もう君を愛していると言えない』
自分の声が、頭をよぎった。
違う。あれは呪いがあった時の話だ。
今は違う。俺は、クリスを愛している。
日記を読んだのなら、クリスも知ったはずだ。
自分が、どれほど俺を好きだったのかを。
それなら――いける。
俺が口を開こうとした時、クリスから平坦な声が聞こえてきた。
「先ほど、キリヤ様にも謝れとおっしゃっていましたよね。何をされたのですか?」
口を開いたまま、声が出なかった。
くそっ。扉の外まで、聞こえていたのか。
怒りの感情がコントロールできない。
キリヤは――。
クリスと並んで歩いていた。彼女に笑いかけられていた。
俺が『脅し』ても、怯えなかった。
そんな理由をクリスに言えるはずがなかった。
聞き流せばいい。誤魔化せ。
「俺は……君と、やり直したいだけなんだ」
「それで、キリヤ様に謝らせようとなさったのですか?」
「違うんだ。クリス、俺は――」
「よくわかりませんが、これ以上の会話はお断りします」
言葉が、胸に突き刺さった。
言葉だけではない。鋭い視線が心を突き破る。
「先ほど、婚約の話をしていましたが……私は今のあなたと、婚約したくないんです。それに、婚約はもう解消されています。元に戻すつもりもありません」
頭の中が真っ白になった。怒りと嫉妬と罪悪感で。
もう少しうまく立ち回れたはずだ。そんな後悔が浮かび上がる。
「これ以上、キリヤ様に何かなさらないでください」
俺は何も答えられなかった。
クリスは一礼し、俺の横を通り過ぎる。
伸ばしかけた手を、下ろした。
「……キリヤ様。お邪魔でなければ、少しだけお花を見てもいいですか? 先生から、屋上にも珍しい植物があると伺ったんです」
「ええ。どの花が気になったんですか?」
キリヤが植木の方へ向かう。
クリスもその隣へ並び、自分から図鑑を見せた。
距離が近い。身体的な距離じゃない、心の距離が、だ。
くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそっ、くそったれめ!!!
俺が身を乗り出した時には、あんなに怯えたのに!
椅子を引いて離れるまで、布団を握りしめていたのに……。
「こちらです。本では青かったのに、少し紫にも見えますね」
弾んだ声だった。俺が聞くはずだった声。
目の前が滲んだ。
唇を噛みしめても、涙が落ちた。
あの時、あれほど後悔したのに。自分の性格が悪いと自覚していたのに。
「俺は……変われないのか……」
クリスを笑わせている男を追い払い、もう一度、自分のところへ戻そうとした。
俺はまた、間違えた……。
今度は、呪いのせいにも出来なかった。
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