友人
昼休みの屋上は、誰もいなくて静かだった。
ここには、魔導学部の先生の趣味で、様々な植木が置かれていた。俺はそれを見るのが好きなんだ。
俺、キリヤは縁の欠けたベンチに座り、硬いパンを齧っていた。
噛み切れない部分を少しずつ千切り、持ってきた水で流し込む。
貧乏男爵家の子息には、丁度いい昼食だ。
かつては名家と呼ばれていた俺の家も、今では領地の修繕費にも困っている。
家名を出せば、昔を知る者には憐れまれ、知らない者には鼻で笑われた。
別にそんなことはどうでもいい。
俺の父は立派な人だ。不幸なことが重なって金がなくなっただけだ。
貧しくなったからといって、人の尊厳を踏みつけてよい理由にはならない。
それは相手にも、自分にも同じだ。
帝国は他の国に比べれば、身分による差別が少ない。
それでも、家柄で人を測る者はいる。ましてや、貴族の子供ばかりが集まる学園だ。
陰口を言われバカにされる。
反論すれば、生意気だと囲まれる。本や教科書を隠される時だってある。
必要なら取り返すし、教員へ報告もする。暴力には毅然とした態度で対処する。
そんな連中に好かれるために、自分を曲げるつもりはなかった。
『あの本、読みましたわ!』
ふと、今朝のクリス様の声を思い出した。
本を取り出す時の、少し弾んだ声。
植物の話をすると、こちらへ向き直って聞いてくれた。
「……なんでだろうな、落ち着くんだ」
口元が緩んでいた。
パンを持っていない方の手で、顔に触れる。
「……いやいや。ただの気のせいだ」
放課後、温室へ誘ってしまった。
一度は言うのをやめたのに、引き返してまで。
快く頷いてくれた顔が、頭から離れない。
「……友人としては、身分が違いすぎる」
「ん? どうしたの? 僕のことを話していたの?」
振り向くと、屋上の扉に一人の青年が立っていた。
***
ディードリック様。
皇族の親戚にあたる公爵家の七男で、この学園でも気安く話しかけてよい相手ではない。
見た目はチャラチャラしていて、令嬢からの人気は高いが、遊び人だと思われている。
彼は勝手に俺の隣へ座った。
「違います。独り言です」
「それは残念。ようやく僕を友人だと思ってくれたのかと期待したのにさ」
彼はなぜか、孤立している俺へ話しかけてくる。
授業で俺が答えれば続きを聞きに来るし、読んでいる本にも興味を示す。
以前、教師の説明の間違いを指摘した時も、彼だけは笑わずに俺の計算を見ていた。
「そうそう、君に薦められた歌劇、台本を読んだよ。二幕の歌が、最後にあんな意味になるんだね」
「舞台で聴くと、また印象が変わると思います」
「君と一緒に観たら面白そうだ。今度、誘ってもいい?」
「……機会があれば」
俺のそっけない返事も、彼は受け流してくれる。
「ところで、クリス嬢とは本の話をしていたの?」
パンを千切る指が止まった。
「ははっ、久しぶりに見たよ。君が動揺している姿。ふふ、気分いいね。今朝、一緒だったでしょう。君が途中で引き返すところまで見えたよ」
「……そ、それは、お見舞いに持っていった本を、読んでくださったので」
「そっか。彼女、少し元気になったみたいでよかった」
ディードリック様の真摯な言葉が耳に届く。
彼は決して見た目どおりの遊び人なんかじゃない。思慮深く、頭脳は明晰だ。見た目では判断できない。
「クリス様は植物にも詳しくて……こちらの知らないことを、沢山話してくださいます」
「うんうん」
「本の読み方も、俺とは違っていて。話していると――」
言いかけて、やめた。
ディードリック様は、にこにこしていた。
「……何か?」
「うんうん。君の話を聞いていただけだよ」
居心地が悪くなり、残りのパンを口へ運ぶ。
彼はそれ以上聞かず、午後の授業の話をした。
別れる時も、いつものように手を振った。
「じゃあ、またね。歌劇の件も忘れないで」
俺は苦笑いをして小さく頭を下げた。この時間は嫌いじゃない。
***
屋上の扉が、再び開いた。
「……おい、キリヤ」
声だけで分かった。
グリッドが、取り巻きを連れて立っていた。
クリス様の元婚約者。
それから、以前から俺へつまらない嫌がらせを繰り返していた男。
「今朝、クリスと何を話していた?」
「本の話です」
「ふざけるな。何故お前が、あいつと一緒に歩いている?」
俺は包みを畳み、鞄へしまった。受け流すのが一番だ。こいつはしつこくて面倒だ。
「ご本人に聞いてはいかがですか?」
……言葉に棘が入っていた。どうやら、俺は自制が足りなかった。
グリッドの頬が引きつる。
取り巻きの一人が、俺の肩を乱暴に掴んだ。
「口の利き方を知らないのか?」
「手を離してください。話は聞こえています」
その手を振り払い、立ち上がる。強い魔力を集中させ、取り巻きを牽制する。
こういう時の彼らは、怯える顔を見たがる。
以前もそうだった。頭を下げるまで通さないと、廊下を塞がれたことがある。
だから、俺は笑わない。
グリッドが取り巻きを下がらせて、腰の剣の柄に手をかけた。
「記憶をなくしたのをいいことに、取り入ったのか? 貧乏人が考えそうなことだな」
「そう思われるのは、ご自由に」
「……謝れ」
グリッドが床を指した。
「土下座だ。身の程を弁えろ。そして、二度とクリスに近づくな。……あと、その目はやめろ」
俺は彼の目を見た。何かに怯えている目だった。
だから、怖くなかった。
「お断りします。謝る理由も、あなたの許可を求める理由もありません」
「クリスは、俺の婚約者だった女だぞ!」
「だからといって、彼女が誰と話すかを、あなたが決めることは出来ません」
彼が剣に魔力を流しながら、一歩近づいてくる。
背後で、取り巻きが扉の方へ回った。
面倒だ。
「クリスだって、元は俺に惚れていたんだ。何も覚えていないから、お前に愛想を振りまいているだけだろうが」
彼の声が、俺の何かを刺激した。反射的に魔力が身体から漏れ出す――。
「あいつは昔から、強く言えば大人しくなる。お前も、勘違いするなよ」
胸の奥が、熱くなった。
クリス様は、俺の話を聞いて笑っていた。
自分で考えて、自分の言葉で、花を見たいと言った。
その全部を、この男は――。
「……今の言葉を、取り消してください。いや――取り消せ」
「あ? 貴様、誰に向かって――」
もう、こいつの理不尽に付き合ってやる必要はないと思ってしまった。だから――。
「キリヤ様?」
扉の方から、声がした。
取り巻きの肩越しに、図鑑を抱えたクリス様が立っていた――。




