約束
キリヤ様と植物園へのお出かけの約束をしてから、時間が過ぎるのが遅く感じられた。
週末まであと3日、あと2日……。指折り数えている自分に気がついた。
漠然とした不安に襲われる。約束しても――待ち人が来ない。
日記の中の私はそうだった。記憶になくても、身体は覚えている。少しだけ週末が怖い。
当日の朝、寮の玄関を出るのが怖かった。それでも――私は靴を履いて街へと飛び出したのであった。
待ち合わせよりも一時間早い。……キリヤ様が待ち合わせ場所の植物園の前に立っていた。
「あっ……」
私を待ってくれている人がいる。それだけで……胸からこみ上げてくるものがあった。
全然覚えていない日記の中の私。彼女が喜んでいるような気がした。
「……キリヤ様。まだ、一時間も前ですよ?」
「クリス様もでしょう?」
そう言われて、私は少し笑ってしまった。
そして、私達は植物園の中へと入るのであった。
温室には、見たことのない花が沢山咲いていた。知っているはずなのに、全てが新鮮に見えた。記憶をなくしたから?
「あっ、キリヤ様。こちらの花も青いです!」
「そちらは別の種類ですね。葉の形が違います」
「本当だ……。こちらも綺麗ですね」
図鑑を開き、実物と見比べる。
キリヤ様も隣から覗き込んだ。キリヤ様のその様子が学者さんみたいでちょっと面白かった。
私が気になった花の前で立ち止まると、彼も足を止める。
反対に、キリヤ様が珍しい木を見つけると、私もついていった。
そんなことを繰り返していたら、時間があっという間に過ぎていった。友人とこんなふうに回るのがこんなに楽しいなんて思わなかった。
「……きっと趣味が同じだからですね」
「どうしました?」
「あ、声に出てましたね。ふふっ、秘密です」
「……それは残念です。……と言いたいところですが、カフェで質問するとしましょう」
キリヤ様も笑って、図鑑を閉じた。
***
池に面したカフェのテラス席で、私達は休憩することにした。静寂の中に、鳥の囁きや木々が風に揺れる音。緑の匂いが私達を包み込む。とても安らぐ空間だった。
お茶が届き、私達は色々な話をした。時には白熱した議論を、時には趣味の植物や歌劇についてのお話、帝都で流行っている音楽についても語り合った。
「すみません、少し失礼します」
長い廊下を渡って、手を洗って戻ってくると、私がいたテラス席から歌が聞こえた。
ゆっくりとした、優しい歌だった。
キリヤ様の声だと気づいて、足が止まった。
普段お話しする時よりも、ずっと柔らかい声。それでいて、声が響いているのにとても澄んでいて、私はずっとその声を聴きたくなった。
小さな花を見つけた人が、誰かを呼んでいる。
その人と一緒に見たいのだと、歌っていた。
……なんだろう、この声を聴いていると、すごく安らぐ。
楽しいものには終わりがある。ふいに歌が止まった。
キリヤ様と目が合った。
「……も、戻られていたんですか」
キリヤ様の見たことのない表情だった。とても恥ずかしそうに、下を見ている。
「あ、ごめんなさい。とても素敵な歌声だったので、つい……」
キリヤ様は、手で自分の耳を隠していた。そんな仕草も初めて見た。
「聞こえていたんですね。……その、聞かせられるような声ではなく……」
「そんなことないです。私、キリヤ様の歌声好きですよ」
そう言うと、キリヤ様は耳を隠したまま、照れたように視線を逸らした。
向かいの椅子に座る。
キリヤ様はお茶を持ち上げた。そのまま飲まずに、琥珀色をしたお茶を見つめていた。
「子供の頃に観た歌劇の歌なんです。この庭を見ていたら、ふと思い出して」
「歌劇、お好きなんですね」
「ええ。昔は、家族でよく観に行きました」
懐かしそうなお顔だった。
「幕が開く前から、楽器の音がするんです。席についてそれを聴いていると、もう落ち着かなくて。父に、まだ始まらないのかと何度も聞いていました」
「ふふ。キリヤ様も、そんなふうになるんですね」
「父は困ったでしょうね。帰り道も、同じ歌ばかり歌っていたので」
「お父様も、歌劇がお好きなんですか?」
「ええ。今でも、家に台本が沢山あります」
キリヤ様がお茶を一口飲んだ。
懐かしそうだった笑顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「ただ、家の事情が変わってからは、行けていません。……だから、こうして自分で歌っているんです。舞台なら、もっと色々な音があるのですが」
「ふふ、私は、キリヤ様のお声だけでも好きです」
彼の指が止まった。
変なことを言っただろうか。でも、本当にそう思ったんだ。
「歌詞の続きが気になってしまいました。あの、呼ばれた人は、来てくれるんですか?」
「……来ますよ。最後に、二人で同じ歌を歌います」
「よかった。では、最後まで聴かないといけませんね」
キリヤ様が少し笑う。
「ここで全部は、さすがに恥ずかしいです」
「では、また今度。人がいないところで」
「……ええ。それなら」
約束してくれた。
私は嬉しくなって、お茶を一口飲んだ。
***
歌劇の話をしているうちに、キリヤ様が鞄へ目を向けた。
「どうかなさいましたか?」
「……実は、俺も書いたことがあるんです」
「何をですか?」
「歌劇の脚本を」
鞄から、紐で綴じた冊子が出てきた。
表紙の角が擦れている。開いたページには、細かな文字と、何度も書き直した跡があった。
「わぁ、すごいです!」
「昔書いたものです。今も、時々直しているのですが……」
キリヤ様が、冊子の端を揃えた。
「本の話をしていて、クリス様ならどう読むのか、気になったんです。それで、持ってきたのですが」
私の前へ、そっと差し出す。
「……読んでくれませんか?」
私は両手で受け取った。
「い、いいのですか? ……ふふ、素晴らしいお土産ができました」
キリヤ様も照れるように笑う。
「その代わり、俺に感想を聞かせてください。……またここで」
私は、ぱちくりと目を瞬かせた。また、約束が生まれた。それが無性に嬉しくて……。
「はい! 寮に帰ってから、ゆっくり読みますね。大切にお借りします」
彼が頷いたので、私は冊子を丁寧に鞄へしまった。
***
寮の部屋へ戻ってから、私は脚本を開いた。
今日のキリヤ様の歌声を思い浮かべながら、ページをめくった。
読み終えると、すぐに感想を伝えたくなった。
でも、今日はもう遅い。忘れないうちに、紙へ書き留めることにした。
その後、新しい日記を開いた。
『今日はキリヤ様と植物園へ行った。青い花を見つけた。キリヤ様の歌を聴いた』
書きながら、あの声が耳によみがえった。
『また歌ってくださるそうだ。今度は、最後まで聴きたい』
脚本も日記も、机の引き出しへしまう。
魔力錠をかけて、灯りを落とした。
*** プリム ***
休み明けの午後、私はお姉ちゃんの寮室の前に立っていた。
お腹が痛いと言って、授業を休んだ。……お母様公認の仮病だった。
お姉ちゃんは、今頃授業を受けているはずだ。
お母様が、寮監から預かった鍵を差し込む。届け物を置くだけだと、そう説明していた。寮監は怪訝な顔をしたけど、侯爵婦人であるお母様に逆らえない。
「プリム、入らないの?」
お姉ちゃんの部屋の扉が開いた。
「う、うん、今いくよ」
日記に何が書いてあるか、少し確かめるだけ。
元どおりにしておけば、お姉ちゃんには分からない。
私達は、誰もいない部屋へ足を踏み入れた――。




