日記
「……残念ながら、一度なくしたモノが蘇ることは難しいです。特に呪力と魔力が入り混じっていたので」
お医者様の言葉が、私の耳を通り過ぎる。
記憶を失った私は、周りから可哀想な人だと思われていた。
自分ではそう思っていない。
文字は読めるし、お話も出来る。好きな本を読めば、続きが気になる。植物を見て温かい気持ちになれる。
……ちょっとだけ不安なのは、皆さんが懐かしそうに話してくださる私を、私自身がまったく知らないことだった。
「……あの……学園には、通ってもよろしいですか?」
身体の傷は順調に治っているという。
無理をしないことを条件に、お医者様は頷いてくださった。
それでも、しばらく療養してはどうかとも勧められた。
でも、何を思い出せばよいのかも分からないまま、待っているのは嫌だった。
私はお礼を言って、診察室を出た。
そういえば、私ってなんで魔物に攻撃されたんだろう?
***
診察室を出ると、両親が心配そうな顔をして待っていた。
「クリス、疲れていないか?」
「帰ったら、好きなお菓子を用意してあるわ!」
私は頷いた。
父親と母親がどういう存在かは分かる。
でも、この方達が私の家族だと言われても、どうしても実感が湧かなかった。
療養所を出て鉄馬車に乗り、侯爵家の屋敷へと戻った。
きっと彼らは優しい人たちだと思う。少なくとも、今の私には。……以前の記憶が無いから本当のことはわからない。
廊下ですれ違えば立ち止まり、困ったことはないかと聞いてくださる。
不思議に思ったことがあるの。
父が口を開くたび、身構えるように自分の肩に力が入った。
母が近づいてくると、自分が何か悪いことをしていないか考えてしまう。
……なんで?
何も覚えていない。だけど、この家にいると息苦しかった。
自分の部屋の机の一番下には、他の引き出しと違って、魔力錠のかかった引き出しがある。これだけは、私しか開けることができない。
……気になっていたけど、何か嫌な予感がしたから開けていなかった。
でも、開けないと前に進めないと思った。
「……日記? 私が書いたもの?」
表紙の裏には、私の名前。
何冊もある。古いものから順に、机の引き出しへしまわれていた。
『お父様は、今日も話を聞いてくださらなかった。怒らせてしまうのは、私の説明が下手だからかもしれない』
心臓がドキンッと跳ね上がった。
私はページをめくった。
『プリムの髪飾りが見つかった。私の引き出しに入っていたらしい。私も一緒に探していたのに、どうして?』
嫌な匂いを思いだした。それが何かわからないけど、この屋敷の匂いなのかもしれない。
『グリッドと植物園へ行けなくなった。お返事を書きたいけれど、何を謝ればいいのか分からない』
グリッド。元婚約者だと聞いた方だ。
あの方と話したことは覚えている。でも、日記の私は、どうしてこんなに会いたがっていたのだろう。
途中から、読むのがつらくなった。
お見舞いに来た子の言葉を思いだした。
私は、よく笑う、活発で明るい女の子だったと。
でも、日記の私は違う。
毎日誰かの顔色を窺って、何も悪いことをしていないのに、謝る言葉を探している。
『今日はきっと大丈夫。みんなに迷惑かけなかったと思う』
その一行から、目が離せなくなった。
「……ねえ、あなた、こんなに苦しいのに、笑っていたの?」
自分の胸に手を置く。
知らない女の子のお話みたいだった。なのに、胸が痛かった。
きっと、これがモヤモヤの正体なんだ。
記憶がなくなって、少しだけ心が強くなったのかもしれない。
だから、思った。
もうここにいたくない、って。
***
その夜、両親に学園の寮へ入りたいとお願いした。
「な、なんだって!? ここでは、不自由なことがあるのか?」
父が大きな声を上げた。それが私を非難しているようで、いたたまれない気持ちになった。
膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめた。なんだか、身体に力が入った。
「……落ち着かないんです」
母が何か言いかけたけど、私は顔を上げて、続きを話した。
「皆さんには、申し訳ないと思っています。でも、家族のふりをするのは……苦しいです」
「ふ、ふりだなんて……」
「記憶がなくても、クリスは私達の娘よ! わ、私が育てたクリスが、私が間違っているはずないわ」
「落ち着け、話を聞くんだ」
二人の顔が歪んだ。
貴族としての責務があることは分かっている。
だから、何もかも投げ出したいわけじゃない。
「学園には通います。勉強もします。ですから、住む場所だけは……私のお願いを聞いていただけませんか」
長い沈黙の後――父は頷いた。
***
「ま、まさか、クリス様がいらしているわよ」
「全部誤解だって聞きましたわ」
「でも……本当だったんじゃないですの?」
学園へ向かう並木道。私は屋敷から登校した。今日が最後の屋敷からの登校。
今日は寮の手続きをして、今夜寮に荷物を送る。何事も早い方がいい。
父は条件として、定期的な報告と、定期的な帰省を提案した。私はそれを了承した。
私を見ながら話している令嬢達がいた。
呪いが解けても、全てが変わるわけではないらしい。
知らない顔ばかりだった。
でも、日記に出てきた人もいるのかもしれない。
私は立ち止まり、彼女達へ向き直った。……全然、顔がわからない。……えっと――
「何が、本当だったのですか?」
令嬢達の笑みが止まる。ううん、あれは笑みじゃない。冷笑だ。だから、私も笑わない。
「え、いえ……私達は、別に……」
「王家の調査で、私の無実は明らかになっています。それでも私が盗んだとおっしゃるのなら、何をご存じなのですか?」
「そんな、ただの噂ですわ。真に受けられても……」
「噂を広めていらっしゃるのは、あなたたちですか?」
黙り込んだ令嬢に近づいた。不思議と身体は震えていなかった。何か、よくわからない感情が身体の中で渦巻いていた。
「もう、やめてくださいね」
「は、はい……」
令嬢が足を震わせて逃げ出していった。
私は一礼し、歩き出す。
好かれたいとも、仲良くしたいとも思わない。
知らない人のために、また苦しくなるのは嫌だった。
「クリス様」
校門の手前で、名前を呼ばれた。
振り向くと、キリヤ様が立っていた。
お見舞いに本を持ってきてくださった方だ。
「おはようございます。今日から通われるんですね」
「はい。……あら、そうだ。あの本、読みましたわ!」
鞄に手を入れる。
お会い出来たら感想をお話ししたくて、持ってきていた。
私達は校舎に向かって歩く。なんだろう、とても自然な流れだった。
「ちょっと、あの孤高の麗人と一緒にいる方って、クリス様?」
「キリヤ様って、身分が低くなければね……」
「ええ、だから、学友と馴染めなくて――」
雑音が大きくなる。キリヤ様が本をバタンと閉じると、令嬢たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「失礼しました。それでは感想を」
私は思わず笑ってしまった。
「あの本のお城の庭に出てきた青い花。図鑑に載っていたんですよ! 作者の方が考えた花だと思っていたのに、本当にあるんですね」
「王都の植物園で見たことがあります」
「えっと、咲いているんですか……?」
少し大きな声が出た。キリヤ様が頷く。
「季節によりますが。今なら、温室にあると思います」
「……見てみたいです」
口にしてから、日記のことを思い出した。
昔の私が婚約者と一緒に行きたかった場所。本当にその場所に行きたかったのか、婚約者と一緒に行きたかったのかわからない。
でも、今の私にも見たい花があった。
校舎につくと、キリヤ様の足が止まった。
「……温室に……いえ、なんでもありません。クリス様、失礼いたします」
「は、はい。ありがとうございます」
予鈴が鳴った。
キリヤ様は図書館に用事があるそうで、そちらへ向かった。
最後に何か言いたそうだった。私はその言葉を聞きたかったのかもしれない。
その時だった。
「お姉様っ!」
足音が近づいてくる。
顔を上げると、妹だというプリムが、息を切らして立っていた――。




