記憶
俺は、クリスからもらった手紙を持ってきた。
何通もある。
返事を出していないものも、途中までしか読んでいなかったものも。
彼女は一通ずつ、丁寧に読んだ。
『この前お話したお店の場所が分かりました』
『お忙しかったら、来月でも大丈夫です』
『白い花が咲きました。グリッドにも見てほしいです』
クリスの指が、最後の手紙の上で止まった。
「この人は、あなたと会えるのを、とても楽しみにしていたのですね」
俺は答えられなかった。
この人。
そこに書かれているのは、クリスの言葉だった。
その時の彼女が、どんな顔で手紙を書いていたか、俺には想像出来るのに。
「クリス。それは君だ」
「……はい。そう伺いましたけど……ちょっと思い出せそうにありません」
知識としては分かっている。
でも、自分の気持ちとしては分からない。
「君は、俺を好きだったんだ」
言ってから、違うと思った。
伝えたいのは、そんな事じゃない。
「俺も、君が好きだった。今も好きだ。愛しているんだ」
クリスは手紙を膝の上に置いた。
「もう疑わない。ちゃんと話も聞く。植物園も、好きなお店も、一緒に行こう。だから――」
途中で、彼女の表情に気がついた。
喜んでいなかった。
知らない男から、突然愛していると言われている顔だった。
「……も、申し訳ありません」
クリスが小さく頭を下げる。
「あなたを愛していた私を、覚えていないんです。それに……すみません。近くにいらっしゃると、少し怖いんです。どうしてなのか、私にも分からなくて」
俺は、いつの間にか身を乗り出していた。
椅子を引く。クリスの肩から、わずかに力が抜けた。
「戻らなくてもいい。もう一度、初めから――」
「でも、婚約を解消したいとおっしゃったのは、あなたなのですよね?」
言葉が止まった。
「父から聞きました。私は、承諾した、と」
そうだ。
俺が終わりにしたいと言った。
彼女は、それを受け入れた。
なのに俺は、クリスが俺を好きなままでいると思っていた。
別れると言っても、彼女の気持ちまでは変わらないと、どこかで思っていたんだ。
「今の私には、結婚の約束は出来ません」
クリスの声は穏やかだった。
そして自分の胸に手を当てた。
「思い出そうとすると、苦しくなるんです。何があったのかは、分からないのに」
責めていない。怒ってもいない。
俺を傷つけるための言葉ではなかった。
何があったのか。
俺は知っている。
彼女が何を話そうとして、その言葉を俺がどう遮ったのか。何を楽しみにしていて、それを何度やめさせたのか。
俺だけは、覚えている。
彼女に謝ることは出来る。償うために、出来る事もあるだろう。
でも、その先に、以前と同じ笑顔を求めていいわけではない。
俺はずっと、彼女が待っていると思っていた。
俺が忙しくなくなって、彼女の言葉を聞く気になった時。
その時には、クリスは同じ気持ちで、同じ場所にいると。
婚約を解消したのは俺なのに――終わった事を理解していなかったのも、俺だった。
何か言わなければと思った。
でも、口から出たのは、もう言った謝罪と彼女の名前ばかりだった。
「ごめん……クリス。ごめん……」
声が崩れた。涙が落ちる。
止めようとしても、うまく息が吸えなかった。
クリスの指が、布団を握った。
その手を見て、俺はようやく口を閉じた。
*** クリス ***
私は、屋敷から離れた療養所で過ごす事にした。
父だという方は、少し寂しそうな顔をした。
父親がどういう存在なのかは分かる。でも、この方が私の父だという実感はなかった。
それでも、私の話を最後まで聞いて、手配してくれた。
皆さんが悪い方だとは思わない。
ただ、笑うたびに「思い出した?」と聞かれると、何かを間違えたような気持ちになる。
私が喜んでいるだけでは、いけないのだろうか。
思い出そうとすると、なぜか胸が苦しくなる。
無理に考えるのは、今はやめておきたかった。
しばらく、静かな場所で過ごしたかった。
療養所には、小さな庭があった。
図鑑を開くと、咲いている花の名前が分かる。どうして知っているのかは思い出せないけれど、ページをめくるのは楽しかった。
庭に咲いている花と、本に描かれている花を見比べる。
似ているけれど、葉っぱの形が違うものもあった。気になって次のページをめくっているうちに、ずいぶん時間が過ぎていた。
その日、学園の方が見舞いに来たと知らされた。
会ってもよいかと尋ねられ、私は頷いた。
現れたのは、見覚えのない青年だった。
袖口を丁寧に繕った上着を着ている。私の前で足を止め、こちらが顔を上げるのを待っていた。
「申し訳ありません。以前お会いしていても、私は何も覚えていないんです」
青年は、少しも困った顔をしなかった。
「では、初めまして。キリヤと申します。本を何冊か持ってきました。気が向いたら、どうぞ」
私は瞬きをした。
彼は私に質問をしなかった。
思い出せと言わなかった。本を喜んで受け取るように、求める事もしなかった。
なんで? って聞こうとしたけど、聞かなくてもいい気がした。
彼はただ、私の返事を待っている。
「……初めまして。クリスです」
私は本を閉じた。
昔の私ならどうしたのか、考えなかった。
この人と、少し話してみたい。
そう思って、自分から隣の椅子を勧めたのであった――。




