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信用

 その後、廊下の隅でキリヤを見かけた。


 床に落ちた教本を拾っていた。表紙には靴跡がつき、何枚かのページが破れている。

 角を曲がっていく男子生徒達の笑い声が聞こえた。


「……私のせいで」


 キリヤが顔を上げる。


「私を庇ってくれたから、こんな事に……」


「違います。これは僕の性格上の問題です。あなたが謝ることではありません。いわば日常のようなものです」


 彼は教本を閉じた。

 これまで何度も同じ目に遭ってきたのか、手つきには迷いがなかった。


「……無意味な理不尽が嫌いなだけですよ」


 私の口からとっさに出た言葉は――


「……ありがとうございます」


 感謝の言葉だった。

 キリヤは小さく頷いた。



 ***



 グリッドに呼ばれたのは、その日の夕方だった。


 私は両親と帰宅し、調査が終わるまで屋敷で過ごす事になっていた。

 グリッドは帰りの馬車が来るまで、少し話があると言った。


 外門の近くには、研究棟から運び出された魔獣の檻が並んでいた。騎士達が馬車への積み込みをしている。


 私達は、少し離れた場所に立った。


 グリッドは、私を見て疲れたように息を吐く。グリッドの表情は、昔なじみの婚約者を見る顔じゃなかった。

 学園や両親と同じ……嫌な人間を見る目つきだった。


「クリス。もう、終わりにしよう」


 心臓が跳ね上がる。続く言葉が容易に想像できてしまう。


「婚約を解消したい」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


 次のお休みに、一緒に行く約束をしていた。

 今度こそと、言ってくれた。


「グリッド。あなたも、私が盗んだと思うの?」


 グリッドは目を伏せた。


「……もう、君を信じ続ける自信がない」


 信じ続ける。

 彼の中では、ずっと私を信じてくれていたのだろうか?


 私は、話を聞いてほしかった。

 何かを決める前に、一度だけでいいから。


「家族が何を言っても、俺だけはお前を分かっていたかった。でも、何度もこういう事が続くと……もう疲れたんだ。もう君を愛していると言えない」


 嫌だ。

 そう言いたかった。

 私は、まだグリッドが好きだった。


 あの日、一緒に花を見てくれた時、本当に嬉しかった。

 もっと沢山話したかった。


 でも、私の話をすること自体が、この人を疲れさせていたんだ。


「……分かりました」


 グリッドが顔を上げる。

 少し嬉しそうな顔がとてもショックだった……



 でも、これ以上はグリッドにも迷惑をかけてしまう。


 だから私は頷いた。


「今まで、ありが、とう、ございました……」


 声が震えていた。うまく言えなかった。

 でも、グリッドは最後まで嫌な視線を向けたままだった。


 そのまま走り出して逃げ出したかった。

 もう違う場所に、世界に行きたかった。


 ――その時、鋭い音が響いた。


 檻の封印が弾けた。

 鉄格子が歪み、中から黒い獣が飛び出す。


「さ、下がれ!」

「馬鹿野郎! 取り押さえろ!」


 騎士の声。馬のいななき。逃げ惑う人達。


 魔獣の身体が、グリッドの背後へ跳んだ。

 彼はまだ、私を見ていた。


「グリッド、危ない!」


 彼の腕を掴み、思い切り押した。


 間に合う。防御魔法を張れば、私も――。


 指先に集めた光が、形になる前に砕けた。


 身体に、熱いものが通り抜けた。


 地面が近づく。

 何が起きたのか、すぐには分からなかった。


 痛い。息が出来ない。熱いものが胸に広がっていた。


「クリス!」


 グリッドが私を抱き起こす。

 彼の服に、赤いものが広がっていた。


 血だ。グリッド、どこか怪我をしたの?


 彼を見ようとして、ようやく気がつく。

 流れているのは、私の血だった。


「お前……どうして……」


 グリッドには、傷がない。

 そう分かったら、少しだけ安心した。


「……よかった……」


 声になったか、分からなかった。


 身体が寒い。まだ死にたくない。


 読みかけの本がある。庭の花も、明日にはもっと咲くはずだ。

 プリムに、嘘つきじゃないと伝えてあげなきゃ。


 グリッドの声が、遠くなる。


 私は彼の服を掴もうとして――何も掴めなかった。



 *** グリッド ***



 頭の中にあったモヤが晴れたような気がした。

 子供の頃から愛してやまないクリスが死にかけた。


「クリスは、助かったんですね」


 俺が尋ねると、医師は頷いた。


「ひとまず、命は取り留めました。ただ、まだ安心出来る状態ではありません」


 それでも、助かった。


 俺は椅子に座り込み、両手で顔を覆った。指の間に、乾いた血が残っている。


 クリスの血だった。


 あの時、彼女は俺に怪我がないか確かめていた。

 自分が血だらけなのに、俺を見て、よかったと言った。


 どうして、あんな事をしたんだ。


 いや――違う。


 クリスなら、そうする。


 子供の頃から、彼女はそうだった。

 転んだ俺を心配して、自分まで泣いていた。誰かが困っていれば、手を貸した。花が咲いたくらいの事で、見てほしいと駆け寄ってきた。


 俺は、その笑顔が好きだった。大好きだったんだ。


 なのに、いつから疑うようになった?


 笑いかけられたら、何か頼み事があるのかと思った。

 贈り物を受け取れば、機嫌を取りたいのだと考えた。

 顔を見るのも嫌になるくらい憎しみを覚えたこともある。


 そういう気持ちが、なぜか今は浮かばなかった。


 思い出すのは、手紙の返事を待っていた彼女の顔。

 話しかけようとして、俺が忙しそうだと気づくと、口を閉じた彼女の顔。


 俺は、あの顔を何度見ていたんだ。


 病室の前には、クリスの両親とプリムがいた。


「クリスが、最後に食卓で話したのはいつだったかしら」


 母親が小さく呟いた。


 父親は答えなかった。

 プリムは、古い本を胸に抱いている。


「……お姉様、ずっとそばにいてくれたのに」


 誰もが、自分の知っているクリスを思い出していた。

 知らなかった事ではない。ずっと見ていたはずなのに、まるで今初めて気づいたみたいだった。

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